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同人女と絵と後悔

人に絵を見せるのが苦手だった。

中高大と学生時代はゴリゴリ徹夜までして絵を描いていた癖に、ついぞ自分の作品を人に見せることはなかった。

素人目にみても絵の上手い友人に正しい指摘をされると、途端に恥ずかしくなり、さらに見せられなくなった。

美大にも行かない私には、絵のことについて言及したり公言できる立場ではないと一線を引いて、全てに対して謙虚に遠慮がちにひっそりとしていた。
上手くないとわかっていて見せる勇気はなかった。でも自分の描く世界は大好きで、否定されるのが怖かった。


誰かに見せたあとの反応が怖かったし、見せてそれでどうするのかというビジョンが全く見えなかった。結局私は人に何と言ってほしいのかと先のことまで考え、そんな自分になんだか冷めてしまい、全てを机の奥深くや、脳内にくしゃくしゃにして沈めた。

人間関係を毎回新しく築く必要がある転勤族だったからか、言語化されない空気を読むという非言語コミュニケーション能力だけがバランス悪く成長した。
大体五感をフル活用させて全力で目の前の相手に接すればどうにかなる。

表情を観察して、周囲の仲良し度や集団の力関係、ご機嫌を感じて、今何を考えて私のことをどう思っているのかどう振る舞えばウケて喜んでくれるのか考える。

みんな心のどこかに孤独を飼っていて理解者を求めていた。

とにかく、そんなだから人に絵をみせた時の反応も、言葉の裏を勝手に読んで、勝手に察して勝手に傷ついて勝手に悲しくなるのも容易に想像できた。

 
それでも、ただ絵を描くという行為が好きで、誰にみせることもなくただただもくもくと二次創作でもないよく分からないものを書いていた。

親にみたことのない作品だと揶揄われてもやめられない。
一生評価されれことはないが、披露しなければ否定されることもない。ずっとシュレティンガーの読者を相手にしていた。

そのくせ子供ながらに自分よりも上手か下手か相対的に優劣をつけて見てしまう残酷さを有していて。
絵なんて主観的なフィルターマシマシのものを、好き嫌いの好みではなく、上手か下手かなんかで考えるのは本当に無意味だしやめたほうがいい。
その思想はブーメランとなって未来の私を殺す。




社会の荒波にもまれるうちに、興味は仕事や金、資格試験。生活、YouTuber、演劇、映画、恋愛、占い、ドラマ、婚活、お菓子、おしゃカフェ、流行りのJPOP、身の回りの人間と移っていった。少なくとも二次創作文化からは離れていた。

大人になったら受験勉強を放棄するくらいハマった推しカプは爆破されてしまったし、社会性が養われるのと反比例するように、表現したいナニカはなくなった。

絵もかかなくなり大好きな小説も読まなくなった。
何十万もして買った液タブも部屋の隅でほこりを被っていた。

そんな私がはじめて表現したいものができて、表現する術が絵だっていうのは本当にやっちまった感がすごい。

なんで離れたんだろう。ずっと逃げずに仲良くしていればよかった。

でも推しカプ創作がしたい。
今の私が求めているのはそれだけで世界はシンプルで、この好きを大事にしたかった。



はまりたての時は、あえて絵の創作は見ないように注意した。同じ媒体で描かれた素晴らしい作品の数々を見てしまえば、この感情は昇華されてしまうからだ。

久しぶりに感じたこの熱量を逃したくなくて、でも全然うまくいかなくて、めちゃくちゃ勉強した。
まずは昔の自分に追い付きたかった。
久しぶり引く線は劣化どころじゃなくて、笑えなかった。
学ぶことは多いが、今はあらゆる技法やデータはインターネット上で簡単にアクセスできる。昔は教本なんて優しい人物画しかなかった。
とにかく、目ぼしいものは漁りまくった。
時間はないが金に糸目はつけなくていいのが社会人のいいところだ。

本も講座も道具もなんでも買ってあらゆるコストを注ぎ込んだ。

それでも、ぜんっぜん足りない。
そもそもちゃんと見てかくというシンプルなこと自体がとんでもない上級者の技で、神絵師や超絵が上手い人とは、やはり積み重ねてきた時間が違う。


美術解剖学から構図から、色塗りから質感、光の扱いからコマ割りからプロット、パース。
世の中には森羅万象あらゆる物体があって表現したいことをするには技術も知識も何もかも足りない。

クリスタというお絵描きソフトすらまだみぬ見知らぬ機能がたくさん眠っているし、3DCGだってやってみたい。
やりいことはたくさんあって、ただでさえ全然関係ない業種で忙しいのに、死ぬまで時間が足りないことを悟った。

ついに表現する能力が足りなくて、苦手な文を書くという行為を解禁して小説も書き始めた。
小説は小説で難しいけどめちゃくちゃ楽しい。


そんなある日さいとうな◯き先生の、絵を上手く書くの禁止の本を読んだ。有名なお絵描きYouTuberだ。

どちらかというと技巧書というよりはマインド主体の本と読み進めていたが最後にかいてあったある言葉に救われた。

これだけでお釣りがきてしまう。
シンプルが故にささった。

幼少期の全肯定というのは大事だ。私の創作物に親がもっと繊細なフォローをしてくれれば、もっと幼いなりに成功体験を積み重ねていればこんな遠回りしなくてすんだのかもしれない。
これも早生まれのデメリットなんだろうか。
全てはたらればだ。
もしできるのであれば、無限の可能性を見せてあげられる人間になりたいと、いもしない子供のために誓った。


とにかくnoteを始めたのは、アウトプットや人の気配に対する苦手意識をなくす為だ。
私はイケイケの女になりたいとは思わないが、このままでいたいわけではない。
私を救ってくれるのは、なんでもいいからとにかく感じたことを外に出す練習と、慣れと体験の積み重ねしかないんだろう。


正直全然原稿終わらないけど、確実に前には進んでいる。私ならできるを胸にがんばりたい。

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