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道産子ギャルは必ず実在する

『魔法少女にあこがれて』のえっちなverが"あこがれver"なのは何故か。

乳首が見えるからだ。

「SAOの円盤はアスナの乳首が見えるよ」

その一言は人々を海へと駆り立てた。

彼岸と涅槃

彼岸とは到達が困難な世界で、通常は死後に到達するとされている。そこには涅槃(極楽)があり、人々はその涅槃に憧れを抱き、苦行を耐え忍び、生き足掻く。いつの日か彼岸に到達できるという希望を胸に。

というのは仏教的な考えであるが、この先に記す文章はさような宗教の話ではない。ギャルや乳首の話だ。

”俺に優しいギャル”は必ず実在する

彼岸とは北海道北見市のことであり、涅槃は”俺に優しいギャル”を指す言葉である。(超越理論)

涅槃が何であるかは諸人によって異なる。私(ロリコン)にとってはロリママであり、マジアベーゼにとっては完璧な魔法少女であり、アニメヒロインの乳首だ。

彼にとってはオタク君に優しいギャル

『道産子ギャルはなまらめんこい』も誰かにとっての涅槃である。東京でうだつの上がらないギャル好きオタクの願い、祈りはここにカタチを成し、顕現した。

東京という此岸(しがん)は現実を浮き彫りにする。ここには多くの人が集まるというのに”俺に優しいギャル”が居ないではないか。じゃあ何処になら居るんだよ!←北海道北見市である。

彼らは遠方の極寒の地で東京ほど豊かでは無い北海道を彼岸と考え、涅槃があると希望を抱き、憧れる。彼岸であるならば涅槃、”俺に優しいギャル”は必ず実在すると。彼岸への憧れを抱くのである。

彼らはギャルあれと言った。すると『道産子ギャルはなまらめんこい』が在った。東京から北海道に引っ越した主人公を待っていたのは都合の良い道産子ギャルという涅槃であったのだ。

彼岸への憧れという人生の希望

しかしながら、多くの人は「北海道北見市に”俺に優しいギャル”が実在するわけがない」と彼らをバカにし笑うだろう。なにを夢見てるんだよと。

いいじゃねぇか夢。夢を抱いて何が悪い。「”俺に優しいギャル”は必ず実在する」と思って生きることは”生きる”ということだ。

人は希望を無くして生きていくことは出来ない。彼岸や涅槃という概念が存在するのは生きる為に必要だったからだ。懸命に生きていれば夢は叶う、彼岸に辿り着けるという信念を持ち、夢を追い続けたからこそ人は歴史を紡いで、このように高度な文明を持つに至ったのだ。

彼岸への憧れは生きる原動力となり、魂に火をつける。人生に希望と、生きる意味を与える。無謀であったり無意味なことであると思えたとしても、それは憧れを止める理由にはならない。生きている以上、生きていかなければならないからだ。

そのような信念をバカにするものがいるならば笑わせておけばいい。信念を持たない、生きていないものを相手に拳を出してケンカする必要はない。

アスナの乳首(ヒロインの乳首)はあった
ロリママ(空島)、理想の魔法少女、”俺に優しいギャル”も必ず実在する

願いと祈り

『道産子ギャルはなまらめんこい』が生まれたのは誰かが”俺に優しいギャル”は実在すると願ったからであり、アスナの乳首が解禁されたのも誰かがアスナの乳首を見たいと思ったからだ。つまり彼岸に憧れたからだ。

願いを口にし、祈ったことで願いはカタチとなった。

仏教において生きているうちに彼岸へ辿り着くには苦しい修行を積む必要があるとされているが、この記事における彼岸はSAOのブルーレイディスクであり、北海道北見市である。

「ロリコンの王になる」、「萌えを統一する」といった大それた彼岸を目指すのならば苦しい修行が必要であろうが、「”俺に優しいギャル”のアニメを見たい」、「ヒロインの乳首が見たい」といったものは願い、祈ることでカタチとなり顕現し得る。夢を語るだけでも人は生きることが出来る。

だから人に笑われようと夢を語ることには意味がある。
「プリティーシリーズはきっと良くなるよ」

2024年4月、審判の時は来る。
私の祈りはカタチになっているだろうか。楽しみで仕方がない。

祈り+1


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