きりしま

 十三にある小さな映画館でえげつない映画を見たあと、俺は柄にもなく、隣に座っていた女に声をかけてみた。それくらいえげつない映画だったのだ。
 女の反応も悪くないものだったので、俺たちは高架下のざっかけない居酒屋に場所を移し、酒を飲みながらひとしきり映画の感想を話した。
 映画の話題も尽きたころ、不意に女が「自分には今好きな人がいる」と言い出した。どうやら長らく恋愛話の聞き手を欲していたらしい。
 彼女の片思いの相手は、手の届かない世界にいる男で、どうアプローチすればいいかも分からない存在だという。
 俺が黙って話に耳を傾けていると、女の方も思わせぶりに黙ってしまった。仕方がないので、その男はミュージシャンか、スポーツ選手か、はたまた漫画のキャラクターかなどと、わざわざ俺の方から質問する羽目になった。
 女はことごとく俺の問いに首を振ったあと、勿体つけながらようやく正解をつぶやいた。
「……あたしさ、桐島聡くんが好きなの」
 ピンと来なかった人はインターネットで画像検索してほしい。見れば「あーあーあ」となるだろう。俺も名前だけでは分からず、その場で携帯を使って検索してようやく「あーあーあ」となった。

 桐島聡は昭和50年に起きた企業連続爆破事件の犯人として、長きに渡り指名手配されている男である。交番に設置されている掲示板などには、彼の顔写真と名前がでかでかと載ったポスターが必ずといっていいほど貼られている。
 女はそのポスターを何度も見るうちに、次第に彼に惹かれていったのだという。
「なんかね、こっちに向かって笑ってる顔がすごく優しそうでさ、あー、なんか、いい人なんだろうなって」
 過激派左翼グループの一員として凶行に加担していた桐島がいい人かどうかはさておき、確かに、手配写真に見る彼のビジュアルは、他の指名手配犯と一線を画している。
 さらさらの長髪に黒縁メガネ、大きな目とぽってりした唇は中性的な印象を醸している。歯を見せて無邪気に笑う表情は、「おい、小池!」に代表されるようなもっさりした仏頂面とは程遠い。
「あんまり、悪人悪人してない顔だよね」
 と、俺はよくわからない相槌を打った。
「だよねだよね、やっぱりみんなそう思ってんじゃん! ってやつだよね、よかったー分かってくれる人いたーあー」
 女が乱雑かつ饒舌になった。それだけならまだ可愛いものだが、女は口を動かすままにとんでもないことを言い出した。
「もうさ、あたしさ、だって部屋にあのポスター貼ってあるもん! 好き過ぎて!」
 ん? ……ん?
 俺が唖然としているあいだに、女はべらべらと自分の犯罪を語り始めた。
 桐島に恋焦がれて半年経った頃、石屋川だか芦屋川だかの改札口に例の手配ポスターが貼ってあるのを見つけた女は、衝動的にそれを剥がして家まで持ち帰ったのだという。夜だからバレなかっただの、酒が入っていたから仕方がないだの、日焼けしないように気を遣いながら部屋に貼ってあるだの、女は言い訳にもならないようなことをさんざ並べ立てた挙句、最後に「でも、後悔してないから」と言ってのけた。
 わあー、こいつ馬鹿じゃねえか。
 嫌なアルコールが、俺の頭に急速にまわってきた。えげつない映画にあてられて声をかけた相手は、盗品を家に貼り付けて後悔しない女でしたとさ、って……。
 自分がひどく情けなく感じられて、俺はヘラヘラと笑うほかなくなった。
 女は女でニコニコと笑いながら、あー、この話初めて他人にした、すごいスッキリー、などと屈託なくのたまい、ライチサワーのグラスをクイと空けた。
 俺は女に飲み物の品書きを渡しながら、僅かに残る好奇心を頼りに質問を投げかけてみた。
「じゃあさ、その、例えばだよ、例えば桐島が『かくまってくれー!』って言って君の目の前に現れたらどうする? かくまっちゃったりする? 今はもう還暦過ぎてて、見た目も全然違うと思うけど……」
「は?」
「え?」
「……いや、あのさ、あたしそういうこと言ったんじゃないんだよね」女は全く虚無の、むしろ冷ややかな目で俺を見た。「会ってどうとか、現実にどうとか、そういう話あたししてないからね」
 なんにもわかってねえなオマエ、という表情と口調をぶつけられた俺は、もはや何も語ることなく、薄い酒を飲み込んだ。

 それからこれといった盛り上がりもなく店を出て、女とは十三の駅で別れた。連絡先の交換さえしなかった。
 俺は謎の虚脱感に襲われながら、飲みなおす場所を探して路地を歩いた。
 罪人に入れ込む女。恋慕をこじらせて盗みを行う女。そしてそれらを組み込んで自分だけの物語を作る女。アルコールの入った頭では消化しきれない、面妖な体験であった。
 不意に路地のむこう側から、メガネをかけた初老の男がニヤニヤと歩いてきて、俺とすれ違った。
 彼は桐島聡ではない。ただのその辺のおやじである。
 なぜそう断言できるか。
 何を隠そうこの俺こそが、桐島聡その人だからである……いや、本当にそうならずいぶん楽しい話だが、そんなおあつらえ向きのオチなんぞ無い。
 ただ、あー、どえらく疲れた、というだけの話である。

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