エサの時間

「はあい皆様おまたせしました! 本日も潮竹(しおたけ)水族館にご来場いただきまして、まあことにありがとうございます! ただ今より、ラッコくんたちのもぐもぐタイムを始めたいと思いまあす!」
 私がラッコのエサやりショーのお姉さんになって半年が経つ。躁状態の口上にもすっかり慣れてしまった。
「はい、ではですね、もぐもぐタイムを始めるまえ、に! 皆様に楽しくラッコくんたちをご覧いただくために、守っていただきたいことがあります!」
 イルカショーをやりたくて水族館に勤め始めたのだが、普通に上がつっかえていた。
「ラッコくんたちはとっっ…ても臆病です! 水槽を叩いたり、大声を出したりすると、ラッコくんたちが怖がってしまいますのでぇ、絶っっ対におやめください!」
 巨大な水槽のアクリルパネルの向こうには、カップルや親子連れがニヨニヨとひしめき合っている。平日にしては数が多い方だ。
「そして、フラッシュをたいての写真撮影も、ラッコくんたちを驚かせてしまうのでご遠慮下さい……! ではまず、当水族館の2頭のラッコを紹介しまあす!」
 底の深い水槽ではラッコのつがいが我が物顔で泳いでいた。食事の始まる気配を感じ取って、2頭とも私の立っている岩場へと近寄ってきた。
「まずう、皆様から見て左側にいるのがトオル、6歳の男の子です!」
 話しながら私は膝を付き、バケツを客に見える位置まで移動させる。
「そして右側がユメ、こちらは5歳の女の子でえす!」
 バケツの中には生の魚介類がみっちりと詰まっている。私はその中からイカの切れ端をつまみ上げ、水面にかざした。オスのトオルがすいすいと近寄ってきて、水中から体を伸ばし、短い前肢でイカをはっしと掴んだ。その愛らしい仕草に観客から溜め息が漏れる。
「はあい早速トオルくんが食べてくれました。ラッコは海の生き物ですので、食べ物ももちろん魚介類です。ホタテやアワビなどの貝類や、お魚、それにイカやウニなどを食べます」
 ラッコのエサはひどく贅沢だ。ラッコはラッコの分際で味にうるさく、旬を外れたものや風味の落ちたものには目もくれない。ひと月あたりのラッコのエサ代は50万円にものぼる。私の手取りの3倍以上の金額がラッコの食事に費やされているわけだ。
「そして今、このバケツの中には、脂の乗ったマスや、イカ、ホタテを細かく切ったものが入っていまあす!」
 早朝、私が仕事場について最初にする作業がこのエサの準備だ。
 冷凍庫から真空パックのトラウト(飼育員はマスをこう呼ぶ)の切り身、イカ、ホタテを取り出し、流水で解凍する。味にうるさいラッコのために、旬の時期にまとめて仕入れた魚介をこうして少しずつ使っていくのだ。
 解凍が終わったら、それぞれの魚介を生のまま、ラッコの食べやすい大きさに手早くカットしていく。イカは捌いて内臓を取り出すところから始まるので厄介だ。客目に触れない位置にある作業場は風通しが悪く、私は汗だくになりながらひたすら生の魚介を刻んでいく。
「北の海に住むラッコは、寒さを凌ぐために大量のカロリーを消費します。そのためラッコは1日に、なんと約10キロものエサを食べるんです! 小さな体で、とっても食いしん坊なんですねえ!」
 2頭のラッコは1日に18キロのエサを消費する。そして私は来る日も来る日も18キロの魚介を処理し続けている。始めたばかりの頃は生魚を切りながら「これをご飯に乗せてワサビ醤油でかっこんだら美味しいかも」などと邪念が湧いたものだが、最近では逆に、居酒屋で出される刺身の盛り合わせなどには一切手をつけられなくなってしまった。
「さあ、今日はトオルもユメも食欲旺盛ですねえ!」
 2頭のラッコは代わる代わる私の手からエサを受け取り、ぷかぷか水面に浮かびながら黙々と頬張っている。
 ガラスの向こうの子供たちははしゃいで指を差し、大人たちも携帯のカメラを向けながら一様に顔をほころばせている。このリアクションのために高コストでラッコを養っているようなものなのだから、きっちり喜んでいただかないと困る。
「さあ次は、私が投げたエサをラッコくんたちにキャッチしてもらいましょう! 今日は成功するかなあ?」
 私がトラウトのブロックを高く掲げると、トオルとユメは少し距離を取った。トオルの方に狙いを定めエサを放り投げると、彼はそれを口で見事にキャッチした。観客が歓声を上げる。続いてユメの方にエサを投げたが、彼女はキャッチがあまり得意ではなく、ホタテを水に落としてしまった。慌てて水に潜るユメの姿に観客が再び微笑む。どう転んでも受けがいいというのはラッコの得な性分だ。
 しかし失敗ばかりさせてでは興を削ぐ。私は成功率の高いトオルに重点的にエサを放り投げた。
「もう少し遠くに投げてみましょう! トオルいけるかなあ?」
 今日のトオルは普段より付き合いが良く、私が投げる端からひょいひょいとエサをキャッチしていった。意外なほど敏捷な動作に観客たちは驚き、やがて拍手が起こった。
 そろそろ締めに入るか、と思った瞬間、トオルが私の方にまっすぐ泳いできて、岩場をどん、と前足で叩いた。
 それは「今日は機嫌がいいからアレをやってやる」というサインだった。 
 私の背中にひんやりとした汗が流れ始めた。ちらりとユメの方に目をやったが、我関せずといった体でホタテを弄んでいる。
「トオル、今はやらないよ、だめ、だめだからね」
 小声でトオルをたしなめた私の声は、インカムに乗って観客まで届いてしまった。この時点で私は、軽いパニックに陥っていた。
 しばらくの沈黙の後、トオルはしびれを切らしたように上体を岩場にべったりと投げ打った。そのあとで後ろ足をもぞもぞ動かして体を押し上げ、そしてとうとう、私と同じ岩場に立った。「立った」というのはまったく言葉通りの「立った」であり、トオルは今、2本の後ろ足でまっすぐ立ち上がって私を見下ろしているのだ。
 オスのラッコの体長は平均で130~140センチある。背中を丸めてちんまり大海原に浮かんでいる光景からは想像できないサイズ感だ。
 さらに我が水族館に住まうトオルはその中でも別格の個体であり、背筋をまっすぐに伸ばした体長は、なんと187センチになる。彼の名前が英語のtallに由来することは言うまでもない。
 観客がにわかにどよめいた。無理もない、さっきまであどけない仕草でお魚を食べていたラッコくんが、人間でも大男と呼ばれるほどの背丈で陸地に立ち上がっているのだ。二足歩行に不慣れゆえトオルの足元はよたついていたが、それが逆になんというか、力石徹のようなプレッシャーを醸し出していた。
 トオルは岩場に尻餅をついた私をじっと見下ろしている。トオルの顔はとんでもなく高い位置にあった。半年勤めてもラッコの表情はまるで読めない。真っ黒な底なしの眼球に捕捉されながら、私の精神は砂絵が風に吹かれたようにまっさらになっていった。

 以前にも何度か、トオルはその巨躯を見せつけることで私を威圧しようとした。どんなに背伸びしても、トオルと私との身長差は30センチ以上ある。私はものの見事に圧倒され、トオルはそれに味をしめていた。
 彼に見下ろされるたび、私はこの世に無いと思い込んでいた「ラッコの暴力」を肌に感じた。水族館の職員たちはたまたま大目に見てもらえているだけで、本来はラッコにも、私の愛するイルカにだって、バケツの小魚では制御できないような暴力性が備わっているのだということを何度も思い知らされていた。

 観客たちはひと言も喋らず、トオルと私を見ていた。
 私はとにかく今この瞬間を切り抜けたい一心で、魚介のバケツに手を突っ込んだ。ぶにょぶにょした生ものの触感の中に硬いものをとらえ、掴み上げてトオルに差し出した。それは巨大なハマグリだった。
 ハマグリを受け取ったトオルは素早く水に潜り、両前足で貝を抱きながらすいすいと泳いだ。それは人間のイメージするラッコの姿そのものあった。
 トオルは勢いよく観客の方へ泳いでいき、そして透明のパネルに激突した。間近にやってきたラッコに子供たちは色めき立ったが、トオルのただならぬ雰囲気に大人たちは我が子を水槽から引き剥がした。私は尻餅をついたまま口をぱくぱくさせるのが精一杯で、観客たちに何も言うことができなかった。
 巨大なアクリルパネルには、一点だけ無数の傷で白く曇った箇所がある。トオルはその部分めがけて、ハマグリを思い切り打ち付け始めた。
 ……とうとうアレが始まってしまった。

 ラッコの食事と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、お腹に乗せた石に貝殻を打ちつけて割るアクションだろう。野生のラッコは実際、岩壁に貝をぶつけて割り砕くことがあるという。ところが水族館に住まうラッコにそれをさせようとすると、彼らは岩ではなく、より強固で分厚い水槽のパネルに貝をぶつけたがるのだ。水槽を傷つけるわけにいかないので、潮竹水族館では殻のままの貝をラッコに与えることは禁じられていた。
 ところがトオルという男は、この貝殻打ちつけ行為に異様なまでに偏執するラッコであった。腕力の要るこの作業は、おそらくユメに対するセックスアピールも兼ねていたのだろう。
 トオルは私をフィジカルで脅迫し、再三殻付きの貝を要求した。私はすっかりラッコの暴力に屈していたので、バケツの底にいつも保険のハマグリを沈めていた。もちろん誰の許可もとってはいない。

 ごん、ごん、という衝突音が絶え間なく響く異様な光景に、観客の表情はこわばっていた。かわいいラッコの、もっとも有名な仕草を前にして、誰もが言葉を失っていた。ありえないことに、厚さ12センチのアクリルパネルは次第にえぐれて始めていた。トオルは貝殻をぶつける角度をこまめに変えて、貝殻が受けるダメージを調節しているようだ。
 パネル表面の細かな傷たちが、いよいよ明確な亀裂に変化し始めた。この時もはや、トオルは自分の拳でパネルを殴りつけているように見えた。ユメはまったく興味なさげに、バケツの方を向いてエサをねだっている。私はただ、成り行きを見守ることしかできなかった。
 私と同じように事を傍観していた観客たちが、我に返って一斉に水槽に背を向け走り出した。
 その瞬間、ついにハマグリはパネルを貫通し、1トン以上のラッコ水が間欠泉のごとく人間たちに向かって吹き出した。
 逃げ遅れた人々は水圧に潰され、親と子は引き剥がされ、かわいいラッコの写真が詰まった携帯は木の葉のように流されていった。辺りはまさに、透明な地獄絵図と化していた。
 私はバキバキに割れたパネルの向こうで泣き叫ぶ客たちの声を聞きながら、ああ、私もラッコも、いくところまでいってしまったのだな、と痛感していた。
 トオルはぼろぼろのハマグリを投げ捨てて、水位の降下もお構いなしにユメの方へ擦り寄っていた。いつの間にか岩場に上がっていたユメは、トオルなどには目もくれずにバケツの周りをすんすんと嗅ぎ回っていた。ラッコの繁殖が難しい理由は、おそらくこういうところにあるのだろう。
 私はおもむろにバケツに手を伸ばし、生魚のブロックを鷲掴みにして自分の口へ放り込んだ。
 手取り三ヶ月分の贅沢な食事のあいだ、そこに無いはずのわさび醤油が、いつまでも鼻にツンと来ていた。

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