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山を歩こう|2003|YNAC通信16号巻頭言

何年かぶりに国割岳に登った。岳之川林道からの作業道をウエヤマ尾根の旧道につないだショートカットルートで、山道としては最後まで国割岳に登れたルートである。

登山口は…消えていた。シダのジャングルをかき分け、むりやり尾根の取り付きから登り始めるが、しばらくの間はおそろしく急傾斜で、ほとんど道の形を留めていない。伐採と植林のあと放棄された作業道は、たいていこんなふうに消えてゆく。

本尾根に上がり、伐採地を抜けると照葉樹林の原生林になる。そこに忽然と幅の広い旧道が現れた。よし、予想どおり! 道は消えたり現れたりを繰り返し、そのうち尾根からそれて見当たらなくなった。探せば国割岳の東の鞍部へ続いているはずだ。かつて栗生と永田を結んでいた峰越え道である。薩摩藩政時代、尾根を越えて瀬切の谷から大川までは長田村(永田の旧字)の範囲だったので、本来は屋久杉の搬出ルートとしての役割が大きかっただろう。
 
こんなふうに、屋久島の山ではしばしば知られざる古道に出会うことがある。何十年か前までは、里から奥山まで網の目のように山道のネットワークがあったのだ。藩政時代の屋久杉伐採道から戦後の木馬道まで、何百年間にわたってさまざまな時代に沢山の人々が踏みしめて重荷を運んだ道が、忘れられたまま静かに森の中に続いている。そのほんの一部だけが、登山道として今も現役である。

山の頂上に登るのはもちろん気分がいいが、古道を発見するのにはそれとはまた違った喜びがある。つくづく懐かしいような、時空を超えて、屋久島の歴史を追体験したような気分、とでもいうのだろうか。それに、むだなく丁寧に造られ、しつかり歩き込まれた重厚な存在感を見せる山道は、まわりの森と調和してとても美しい。

現在の屋久島の森の成り立ちには、よくも悪くも全面的に人が関わっている。数百年にわたる屋久島の仕事がどういうものであったか、その営みがどのように現在につながっているのか、よく調べ、見抜き、実感をもって理解しておかねばならないと思う。そのときに、古道を歩いてみるという経験は、間違いなく必要なことだ。風聞にとらわれず過去と現在を正確に理解してこそ、未来を考えることができる。屋久島に生活するわれわれは、もっと山を歩かなければならないと思う。

 ところで、国割岳の頂上は? 山頂部には一か所展望のいいポイントがあり、1074m峰の岩壁から海岸までを見渡すことができる。しかし風が強く全体にけっこうなヤブに覆われている上、花崗岩のピークなので、尾根が複雑に派生して地形を読みにくく迷いやすい.無事に帰るにはかなりの読図力が必要!ということで一般向けとはいいがたい。しかし、深みのある玄人好みのいい山だし、屋久島で最も大きな森の中心に位置する、世界遺産の核心なのだ。

ぜひ、登山力をつけて、挑戦してみてください。

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かつて沢登りを中心に活動していたMCC(三岳クライマーズクラブ)時代の山行エッセイです。文章をいじっていたら、最後のあたりはなんだかオリジナルとは別の文になってしまいました。でもこういう思いはいまだにあまり変わっておらず、この後発足させた屋久島自然クラブや、現在の屋久島大学沢部、ぼー研部の活動へと繋がっています。

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