医者という生き物
こんばんは、闇と光の伝道師、愛を叫ぶじゅにーです。
前回の記事を書いていて思ったんですが、医者の生態ってあまり一般には知られていないんですかね。
「医は仁術」とは言いますが。
確かに理想は理想なんですが、その志のみで動いている医者は残念ながら殆ど居ません。
じゃあ富や名声のために仕事をしているのか?……と思われるかもしれませんが、そんな単純な話でもありません。
わたしが時々取り上げる医療の闇に関する話も、この「医者」という生き物をよく理解していないと与太話の域を出ないのかな、と思った次第です。
というわけで、今回は医者の生態に迫ってみましょう。
さて、先ほどの「医は仁術」の理念ですが、何故それが理想論で、志として掲げられないのか。
何故なら、多くの場合で患者がそれを望んでいないからです。
そこだけ聞いてもよく分かりませんよね。例えばですね、会社の健診で脂質異常症(高脂血症)を指摘され診察に来た人が居るとします。
A医師は、食生活や運動などの生活習慣の改善を強く勧め、薬は出しませんでした。
B医師は生活習慣の改善を勧めはしたものの、とりあえず薬を出しておきました。
さて、A医師とB医師、どちらの方が患者さんは納得するでしょうか。
恐らく、B医師の方が評価されるでしょう。しかし、理念としての「医は仁術」を全うしているのはA医師です。
生活習慣の歪みで生じた弊害は、生活習慣を正すことによってのみ改善する。それを薬で誤魔化すのは一時しのぎにしかならず、本質的な解決は出来ません。
しかし、世はB医師を欲する。
医療は博愛事業ではなく、三次産業、即ちサービス業なんです。
第一に求められるのは顧客満足度。顧客の利益は二の次です。
後先考えず手っ取り早く事態の改善を望めるB医師が、痛みを伴う抜本的改革のA医師より評価されてしまうんです。
そんな環境で暮らす医者に、まず仁術は身に付きません。
しかし、世間は実態としては算術的医療を求めてくるのに、理念だけ仁術を求めてくる。
ただでさえ一挙手一登足に責任が付き纏う医者にとって、この概念の押し付けはたまったもんじゃないです。
そこで誕生するのが「標準的医療」。
顧客満足度をそれなりに維持しつつ、人命予後に関して理想的だったパターンを踏襲する事によって仁術的建前も得られます。
統計、研究、学会発表によるガイドライン化など、様々な項目で標準化は進んでいます。
本来、病態は個々によって様々であり、きちんと寄り添うことによりその人への最善の道を模索せねばならないのですが、標準化により型にハマった医療がスタンダードとなっています。
大多数の医者は、その型にハマった医療を選ぶんですが、どうしてだと思います?
有事の際、スタンダードな医療を選べば「最善は尽くしました」と言い訳が出来るからです。
型破りな医療を行い、結果が悪ければ信頼は失われます。下手をすれば訴訟問題に発展します。
結局、標準的医療をもってして患者を救うという教科書通りの医者が量産されていきます。
さて、その標準的医療に間違いがあったときはどうなるんでしょうかね?……というところで、今回は終わっておきます。
それではまた。
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