奉公の描く方向性
ファン冥利に尽きる話のひとつ
馬場さんを『説得』したことがあった
昭和の時代、興行は、特に格闘技、中でも特にプロレスは街貼りポスターが広報アイテムとしては最重要視されていた
今では考えられないが、町のそっちこっち、人んちの壁とか電柱とか、勝手にどんどんポスターを貼って回るのだ
もちろん、夜中!
コンプライアンス前と後で、仕事って大きく変わったよね
営業部員が警察のご厄介になったり、地元のチンピラから「誰に断って俺っちのナワバリに、うんぬん」という電話が入ったりすることしょっちゅう
そして派手な看板を背負った宣伝カーが街を練り歩くというのが“プロレス興行”の定番だった
本当に今では考えられない『ALWAYS 三丁目の夕日』の世界線
なんか本当にあったことなのか自分でも疑わしくなってくる昨今
それでも子ども心にプロレスのポスターというのはときめいたものだった
狂える、黒い、爆弾、挙句には殺人~~とかのニックネームのついた外人やカタカナ+漢字の日本人
スポーツなのに思い思いの衣装を着ていたりマスクつけていたり、しかもテレビでよく見る有名人でもある
まさに最先端の“大人”芸
イノベーションここにあり、と言わずして何を新しいというかの世界
そんなショービズ最先端もコンプライアンスや企業努力の衰退で
いつからか周回遅れになっていく
1990年代初頭に、そんな中で世間から1,2周遅れ始めた全日本プロレスの視覚的訴求力がメンバーの入れ替えなどで挽回に転じるフェーズになった
メンバーの入れ替えというのはSWS大量離脱、超世代軍創立の動きの中で、大型異能外人+馬場鶴田天龍から
三沢川田の若い力の勃興と、それを迎え撃つ鶴田+ゴディ・ウイリアムス・エースというそれまでの外人路線とは一線を画したアスリートっぽい外人選手という図式へと変換する時ということになる
フレッシュだった
転換点として歴史的必然だったのだろうけれども、難産だった
やはり元子さんは馬場さんをメインに扱う方針だけはいつも続行したい
ところが馬場さん自身は、SWSショックからか、自分を前面に押し出すことは反感を買うだけだと捨て鉢なムードがあり
「もうオレをポスターに入れてくれるな」という思いが強硬になっていった
でも、写真を小さめのサイズに変更して他の選手と並列とする扱いは、どうしてもしっくりこない
何度も馬場さんにガチギレされた元子さんは、レイアウトを何度か修正する中で制作時間も無くなり
僕への指示の中で面積は小さいながら四角い枠で囲って特別感を出していこうよという結論になる
そして、、、
「あなた馬場さんにこれでいいか聞いてきて」
うわぁ~~~マジですか
「社長、次のシリーズのポスターのデザインなんですけれども」
「だから、オレを載せるのはもういいんだよ!」明らかな不機嫌
「。。。」
「いいか、オレはもうメインイベントに出てるわけじゃないんだからおかしいだろ」
「。。。天皇陛下が日本の象徴であるように、社長は会社の象徴として使わせてほしいです、もしくはトレードマークとしてあったほうがいいと思うんです、全日本プロレスという名前がなくても社長の写真のほうが興行としてわかりやすいと思います」
天皇陛下と一緒というフレーズからか、やっぱり馬場ファンの発言は心地よかったか、馬場さんも納得してくれた
しかし、思うに、この時、全日本プロレスのシンボルを設定したことにより、全日本プロレスという『文化』が始まり、同時に完成もしたように思う
新日本プロレスにはサブカルチャーからの強烈な後押しがあった
少数派の馬場ファンであったぼくには中学生の昔から大学のプロレス愛好会時代まで出会うプロレスファンはほぼ9:1で新日ファンというなか、新日が単独でプロレスというジャンルを文化として構成しているのではないかという劣等感と、一種の憧れを持っていた
『馬場全日もプロレスというジャンルの中の重要な一文化である』!!
すこしだけ押し返せた、少しだけだったけれども
9:1を7:3程度にまでは
これ以降の全日本プロレスのポスターは、デザイン性は伴わなかったかもしれないが
単なる1営業アイテムから、ファンのコレクションアイテムに格上げされたように思う
“18年目の新・旗揚げ魂”
かっこよかったなぁ、あのポスター
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