川内倫子展に行った

オペラシティでやってる川内倫子の写真展に行きました。
中回顧展と言えるくらいの近年のをまとめたものといった感じで、川内倫子っぽいなーと思うものからこういうこともしてるんだと知るところまであった。
そういうものだと言われてしまえばそれまでなんだけど、ピントが甘い写真が多くてびっくりした。それまでは大きなプリントでは見たことなくて写真集をちょこっと眺めるだけだったので、え、こんなにピント合わせないものなんだ、と驚きました。
あと、インスタレーション的な写真や、インスタレーションもあったり、なんだか映像展示もインスタレーションっぽくて、写真作家だと思ってたので意外でした。
良かったのは最後に作品集がたくさん置いてあってそこでいちばん有名なやつを改めてじっくり見れたことで、わ、やっぱすげえわ、とすぐに思ったものの、ページを繰っても繰っても同じテーマの変奏で、とはいえ同じものは撮ってなくて、でもまるで大声で絶叫されてるかのようなくらいに明白なテーマが繰り返し繰り返しあらわれてきて、もういいよ、わかったよ、となんだかうんざりしてしまった。すっげえのはわかる。けどそこまで主張されると儚さを疑いたくもなるし、こんな日常にも溢れてる儚さのわかる私、みたいなことにも見えてくる。そうじゃねえんだろうけど、テクスト論的にはそう思っても自由ですからね。ただ、抽象的なテーマを日常から写し出してて凄いのは凄いんだけど、うわー綺麗な写真だなとかいい写真だなくらいしかもう言葉が出ないような圧倒感はなくて、こういうことが言いたいんだよね?という確認というか、とにかく聞き役にさせられてるような感じがあって、だってあの写真に一言足してボケらんないでしょぼけなくてもいいけど、受け取る余白がないというか、その息苦しさはあった。もう殆ど言葉で書かれた詩ではないかと思えるくらいでした。なんだか話の通じない人と議論してるみたいな、ダムは無駄!作っても意味がない!って人に治水の必要性とか言っても通じないように、実際に知り合いにいるんだけど原発再稼働反対を唱えてる人にはそれは頑として譲れないことのように、これってテーマ自体が圧の強いものじゃないからそう見えないだけで、同じ方法を違うテーマでやったらやっぱりもうたくさんですって言いたくなるようになるんかな。
友人が言うには子供ができてから写真が変わったようで、そこも含めて小沢健二的ではないか。小沢健二は変わっちゃったからねえ。オペラシティだったもんで余計に思い出してしまった。親になってラブリーみたいな歌詞は書かないんだねえ。キリンジみたいな歌詞になったように思う。

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