その「是々非々の批判」が是々非々の批判だと是々非々で担保してくれるものは何ですか?


「物事には何事も、党派性やダブルスタンダードではなく「是々非々」的な態度で臨むべきだ。」


これは、とても素晴らしいし、正しい態度だと思う。

政治や報道をはじめとした、さまざまな場面でみかける残念なダブルスタンダード。

旧ソ連は西側諸国から批判された際には反論として、しばしば本質から逃げて論点を逸らす Whataboutism (そういうオマエはどうなんだ主義)と呼ばれる詭弁を多用したという。

しかし詭弁と言われようがなんだろうが、そもそも自分のこと棚上げし過ぎで舌鋒鋭く批判していたりとか、たとえばテレビの「スキャンダル扱い」の尺の大きさだって、あんまりにも偏り過ぎじゃないっすか?  え? 贈収賄や不倫はまあもちろん問題だとしても、発言の言い回し1つや漢字の読み間違い、カップ麺の値段答えられないのすら問題視して報道繰り返していたくせに、さんざん「東日本の食材はベクれてる」とか言ったり、反ワクチン運動に加担したりとか、震災瓦礫に言いがかりつけて冤罪でっち上げたうえで典型的なNIMBY案件で公然と受け容れ拒否してきた人たちが都知事選立候補とかしても、ぜんぜん問題視されたりしないんスか? 普段から「人権」「反差別」とか掲げている人たちがこぞってスルーして支援とかしちゃったりして良いんですか? いつもみたいに任命責任とかなんとかテレビや国会で追及されないの??ていうか、そういう過去の発言で傷つけられた被害者たちの涙や人権って、カップ麺の値段以下の扱いなの? ………程度に思うことは、たしかに多いっちゃ多い。(長い)

ダブスタなく、是々非々で対応することって大切。批判も必要。特に、政治はもちろん報道とか報道とか報道とか報道。




まあ、それはともあれ。



「是々非々」は大事。批判も大事。それ自体に異論はないのだけれど、しかしここで問題が。



「是々非々」が正しく是々非々であることって、批判の正当性って、誰がどうやって担保してくれるの? それって実は、「是々非々で」とやってる人たちの主観や場当たり判断に過ぎないんじゃありませんか?…と。



…オマエは何を言っているんだ? と言われそうなので先に思考実験的な実例を出してみると、「是々非々的な態度」ってたとえば、どうやって「塞翁が馬」「損して得取れ」「肉を切らせて骨を断つ」「敵を欺くにはまず味方から」みたいな事態に対応できるんでしょうか?  …と、思えたりもして。たとえば囲碁や将棋の達人の一手を見て、即座に良い手なのか悪手なのか判断できる人ってどれくらいいます? 

是々非々は、「客観的に見て是々非々」と言いますが、その客観的の「客」って誰ですか? …と、これは先月「誹謗中傷と客観的な批判との違いって何?」みたいなことを考えたときの話とも共通点が出てくる。


もちろん、これは「ダブスタを容認したり、党派性に阿るべき」などと言いたいわけじゃない。

ただ、背景も事情も戦略も思惑も布石も知らない人が、自らの「客観性」に基づく判断を万能と信じすぎてしまうケースが多発していることを懸念している。「是々非々」と判断するための材料、本当にそろっているんですか? 正しいと確信できるその謎の自信は、どこから来てるんですか? 「誰かが『アイツは悪い』と叩いているから」みたいな雰囲気に流されてません?


現代は、情報化社会によって、なまじ色々な情報や過程が随分と可視化されるようになった。

それはとても良いことなのだけれど。一方で「公共空間で誰の目にも見えている事実以外にも、さまざまな背景や前提がある」という「当たり前」への想像力が失われてはいないか。事件は会議室で起こっているわけじゃないが、グーグルアースで検索すれば全てわかるというものでもない。 采配や判断にやたら口出ししたがる素人達の場当たり的で無責任な「客観性」「批判」が本人はもとより、ときには専門家・プロの総合的に長期を見越した判断より尊重されすぎなケースみたいなの、多すぎないか?? と。

特に「批判」は、本来は建設的な目的のために用いられるもの。しかし現実には、「出る杭を叩き潰す」「重箱の隅をつついてマウントかまして優越感に浸ったり、嫌いな相手に嫌がらせする」ことにあまりにも多く使われすぎてしまっていないだろうか。これについては「批判の文化が日本を技術後進国にしているかもしれないという話」とのブログにも近いことが書かれていた。


この傾向が社会でエスカレートし過ぎると、「失敗や瑕疵が許されなくなる」し、「何かやる人間は必ず、それを片手間で『批判』するヤツから無限に嫌がらせされる」ことが日常茶飯事的になる

ポピュリズム的な流れがより強まり、朝三暮四を朝四暮一にするような政策や政治家、無責任でチェリーピッキング的な批判が持て囃されるようになるのではないかな。まるで近所のガソリンスタンドより1Lあたり3円安い隣町のスタンドに時間と燃料消費して出かけた挙句、軽自動車だからと軽油を入れて「節約した」みたいなのが「合理的」になっては、たまったものじゃないね。
(すでに平成時代に公共事業や公務員悪玉論などの「改革」でロスジェネ世代が生まれた現象こそが、それであった感は強いけどね。)


東電原発事故での「放射能デマ」の実例ひとつとってみても、世論はしばしば間違える。割と簡単に煽動される。なにより、すぐに忘れる。いま、「是々非々」などと称されているそれは、今はもちろん、結果や未来に対しても本当に正しく是々非々なんですか? それを担保できるものは何ですか?


「是々非々」だとして「正しい」と疑っていないもの。それ実は、ただの素人や野次馬の間でエコーチェンバー的に増幅した「お気持ち」の寄せ集めだったり、長期的視野と戦略や、総合的な費用対効果とバランス・公平さの考慮に欠けた場当たり功利主義だったりなど。つまり素人の床屋談義や井戸端会議だったり、酷いものだと冤罪での私刑や吊し上げの人民裁判に過ぎなかったりしませんか? 「客観性」の「客」って、ときには、正体がただの野次馬に過ぎないなんてことも。

…先月は「その『憎しみ』と『敵意』は、他人からの借り物じゃないんですか?」なんて書いてみましたが、これもまた「みんなが言っている」的な雰囲気にいつの間にか持たされた、「他人からの借り物」だったり。なーんて。


雰囲気に流され、長期的な戦略もなく、判断基準や前提の共有も怪しいのに目先の良し悪しに一喜一憂し、善だ悪だ、敵だ味方だと自信満々に騒いで簡単に人を叩いたり、見棄てたり、手のひらをかえす。そんなものは、是々非々ではない。……と、私は思うかな。 ま、そんなの私が勝手にそう思ってるだけだけど。


最後に、以前にも「是々非々」について別の角度から考えてみた記事ものせてみる。


ほぼ「正しい」とされて、疑問を持たれることが少ない大義名分や美辞麗句を並べたものほど。改めてもう少しその本質を疑ってみることが大切なのかもしれない。そして、それを担保してくれるものが何であるのかもね。


・「是々非々」は、本当に是々非々なのか。


・「リベラル」は本当にリベラルなのか。


・「平等」を訴えるものは、本当に平等を望んでいるのか。


・「反差別」「人権擁護」と言っておけば本当に反差別であり、人権擁護なのか。


・「アンチファシズム」を掲げれば、本当にファシズムから遠いのか。


・「朝鮮民主主義人民共和国」は、本当に民主主義であり、人民のための共和国なのか。


・東京ドイツ村、東京ディズニーランド、東京都町田市は、本当に東京なのか。


それ以上いけない





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