「女性が県議にお茶出し」では、仕事にならないのか。

「女性が県議にお茶出し」廃止 埼玉県議会、専従で7人を雇用
埼玉県議会の常任委員会などで、女性職員らが委員の県議にお茶を出す慣例が廃止されることになった。

いやね、たしかに、お茶出しをさせるために女性職員を雇って…なんてのに、条件反射的に「お茶くらい自分で淹れろよ」「女性だからとお茶くみだけさせるというのはジェンダーロール的な悪習では??」という気持ちは私にも無いわけではないのですよ。

ただね。こういうのを無駄だ、差別だと叩くよりも。
お茶出し担当でもきちんと雇用と報酬を生み出していた有益さも考えて、なんとか社会を良い方向へと回せないものだろうか…と。

叩いて、気持ちよくなって喝采を送ったところで単に雇用が消えるだけだし、「ムダ」を削って「浮いたお金」も別段、国民の元には降りてこないし。

それに、この問題は仕事と報酬との線引きという問題も考えなくてはならなくなるんじゃないのかなぁ?

「お茶出しだけでは報酬や仕事を貰えない」のならば、どこまでやれば仕事としてお金もらえるようになるのでしょう?

これを突き詰め続けた結果、必死で働いても「まだ足りない」「ムダが多い」などと多くの人が報酬もケチられ雇用もどんどん減らされ、しまいには専門家ですらまともな報酬が得られなくなったのに。

昨今では人手不足に対して「ボランティアが足りない!」とかよく言われますけど、なんじゃそりゃ。なんで必要に迫られている仕事がタダ働き前提なんだよ。ちゃんと雇用してくれよ、と。


「ムダを無くせ」「合理化」「改革」を合言葉に、全ての人にマルチタスクや高度な仕事を求め過ぎて、一方で人員を極限まで削る限界ダイエットみたいな真似を繰り返して。
学者に金策や事務仕事まで、アレもやれ、コレもやれるはず!とやり続け、専門性ある仕事も派遣や非正規雇用、または生活できないレベルの報酬にして。


それで世の中、何が良くなったのか。

そもそも、この件で「お茶出し担当なんてムダだ」と断言し、非難や「指導」できる前提となる、現場や背景について、われわれは何を知っているのか…というところも考えなくちゃならない。何も知らないのに、思い込みで干渉していいことなのか。当の雇用者から「正しさ」を盾に仕事を奪っておいて、代わりの職業や賃金を面倒みるわけでもあるまいに。昔は小人プロレスだとか、最近だとレースクイーン廃止だとかの問題にも該当するのかな。

無駄に「見える」「思った」からと、素人や部外者が口出しして削減するのなんて、まるで好き嫌いで野生動物の生態系に干渉するようなものにも似てくるのかも知れない。

そうやって、「良かれと思って」。「ムダ」だと思うものに次々と干渉して滅ぼして、「かわいいもの」「好きなもの」に「選択と集中」を続けてきた結果。平成の30年間の間に社会における「生態系」のようなバランスが崩れ、氷河期世代も派遣も専門家も共に路頭に迷い、日本人が絶滅に向かうレベルの少子化が進んでしまったのではないのかね。。。なーんて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?