「コンクリート」の中には、実は人がいた。(※比喩表現)というお話。

新型ウイルス騒動の中、「アート関係への補償が不十分」(意訳)という話が、非常にエモーショナルな表現?で出てきたみたいでして。それに対する、こんなツッコミを見た。(引用元のアート関係ツイは、今は鍵かけられていて読めない。炎上でもしたのかな??)

そういえば「コンクリートから人へ」というキャッチフレーズ、ちょっと前までやたらと流行りましたよね。

しかしそれを生業としてきた人達や雇用を生み出していた地方にとって。
たとえるならば、アートを生業としている人達から「芸術なんぞより倹約を」と言って仕事を奪っていくようなことと、ぶっちゃけ変わらなかった。

確かにそうだ。引用したツイにもあるけど、「もう何十年も前に見殺しにされたけど世間様は拍手喝采だった」のは、その通りだと思う。特に、地方経済はアレでますます悲惨になった。でも、助けてはもらえなかった。

今回、アート関係者が悲鳴をあげているような無慈悲な仕打ちは、実はとっくの昔から、土木建築業界に対しては社会からの喝采と共に行われていた。

それならば、「なぜ土木建築はダメで、アートは尊重されるべきとされたのか。」これは、ちょっと考えなくちゃならないのではないかな。

実は、あのときの「コンクリートから人へ」の「人」とは、都市型リベラルのホワイトカラーばかりが想定されていたのだと思う。当時「コンクリート」呼ばわりされたところにも、たくさんの人の暮らしと雇用、生活、生業があったのにね。特に地方に暮らしている身としては、その実感が深い。

結局、あのスローガンは、それらを奪うロジックにされてしまった。

ある意味で、「人」と尊厳に対する選択と集中。職業や、生き方への無知・無理解の中での不当とも言える命の選別。多様性や人に優しい世界とは、実は真逆のものだった。

都市型リベラル的な暮らししか知らない視野の狭さと、そこから外れた、「似つかわしくない」「遅れている」職業や地域への、潜在的な差別的意識がそこにはあったんじゃないかな。社会を支えていたそれら職業への知識も、想像力も、敬意も、みんな足りていなかったんだと思う。当時の政治家も、それに喝采を送った沢山の国民も。

なんだか、アリとキリギリスの寓話を、ちょっと思い出してしまった。

日本社会ではこれまで、勤勉なアリさん(現場で生活を支える仕事や地方、農家など)がバカにされ、「ムダ」だと仕分けされまくった一方。華やかなキリギリスさん(都市型の洗練された生活)ばかりが持て囃されてきた。

そういうしわ寄せが、緊急時に「社会の脆弱性」としてモロに出てきている気がする。今の新型ウイルス騒動でもそうだし、これからだって自然災害はたくさん起こる。一方で、インフラは老朽化してくる。「笹子トンネル事故」なんて、もうみんな忘れてしまっただろうか。

本当は、「コンクリート」呼ばわりされていた人たちの生業や暮らし、地方などが、「人」の日常、当たり前を支えていたことは、そろそろ、もっと知られてもいいんじゃないかなぁ。

ともあれ。

自分に関係する仕事と賃金、地域は「権利」。
自分にとって他人事な仕事と賃金、地域は「利権」。

きっとこういうのが、ほんと良くない。
だから有名アーティストが「たかが電気」といって侮辱した言葉も、こういうときに「たかがアート」と返されてしまう。


これから、アフターコロナの世界では、他人の仕事や暮らし、生業を「利権」だと叩くよりも。「世の中は、誰かの仕事で出来ている」という意識を持って、それぞれの生き方や仕事に敬意を払い合って生きていきたいよね。インフラを支えることも、文化や芸術も、みんながあってこそ、社会が豊かになっていく。



・・・でも、坂本龍一さんにはせめて、「たかが電気」発言は謝ってほしいかな。ちょっとだけね。(ぜんぜん期待はしてないけど)



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