「誹謗中傷とは違う『客観的な批判』」の「客」って何者ですか?

最近、テレビ番組に出演していた方が「誹謗中傷」によって自死に追い込まれたとニュースになっていた。(敢えてニュースなどのリンクははらない)

それを受けてネットでは、にわかに「誹謗中傷をやめよう」というのがムーブメントになりつつある。けど、ホントにそれってそんなに簡単にいくもんなんだべか? そもそも、「自覚的に誹謗中傷してる」人って、割と少数なのでは…?


『批判と人格攻撃が繋がっている・区別できないという事例は日々至るところで目にするが、批判と人格攻撃は別物である・区別できるという事例はほとんど見かけない。「区別すべきだ」という主張は目にするにしても。』
『批判と誹謗中傷とを区別するのは事実上困難だと認めるところから出発するしかないのではないか』─────。

これは、実は私も最近……というより、もう何年も前からうっすらと感じていたことでもあった。

もちろん、批判をするな!なんて言論弾圧するつもりは毛頭ないのだけれど、しかしながら上でも言われているように、『「区別すべきだ」という主張は目にするにしても』『批判と人格攻撃は別物である・区別できるという事例はほとんど見かけない。』という残念な現実は、多くの人がそれなりに体感しているんじゃないでしょうか。

これ、先に結論を言えば「批判」というのは、している本人の主観に過ぎないにも関わらず、本人や周囲も含めて「より客観的」「より正しい」と錯覚されやすいからじゃないかなと。

あからさまな人格攻撃は論外としても、「最初のオリジナルは主観で、それを受けて出てくる他人からの批判こそが客観」であり、「批判側は、最初のオリジナルよりも正当性やバランスを担保している」「欠けている部分を見抜いている」「拝聴されるべき忠告・善である」みたいなバイアスが無条件にかかりやすくなっていませんか? 

ごく一般的に行われる「批判」において、その「正当性・妥当性・専門性・信頼性」というもの、いわば客観性の担保って、実際にはどのくらいあるんだろう?そもそも、やたら曖昧なまま理想化される「客観性」の「客」って誰? 偉い人? 何をどれだけ本当に知っているの?

なにごともそうだけど、生み出すこと・守ることよりも、ケチをつけてちゃぶ台ひっくり返すだけの方が遥かにお手軽だったりする。端的に言えば、生み出すことには一定の時間も労力も、コストも能力もかかるけれど、単にケチをつけるだけなら必ずしもそれらを必要としない。



ここでは「批判」を敢えて「ケチをつける」と表現したけれど、当然ながら、必ずしも「批判=ケチをつける」という意味ではない。しかし他人からの批判も結局は、その他人による別の主観に過ぎないケースも多く、敢えて雑に言ってしまえば「他人であるという以前に、『他人事』による主観」であるパターンすら多々あって。「批判」と呼ばれ一緒にされているものの中には、実は勝手な思い込みだけで「ケチをつける」意味でしかないものも多く含まれている。

なにしろ「生み出すこと・守ること」に比べ、「ケチをつける」ことに必要なコストやハードルはとても低く、何の裏付けも担保も責任も必要としないのだから(もちろん、論文の査読のような場は全く別の話)。「止揚を促し良くするためではなく、相手を潰す」自体が目的の場合すら多々ある。(ここら辺は、「反動のレトリック」という本を読むと色々理解が深まるのでご参考に。)


挙句、「批判は自由」というのは当然としたうえでも、「批判は拝聴されるべき善」という、うっすらとしたバイアスが社会的合意になっている節まである。結果、これを一身にぶつけられる側は多くの場合、一方的にリソースを奪われる。電話が24時間鳴りやまないようなものだ。(繰り返すが、批判が全て悪いだとか、批判をするなとは言ってない)



だから、言いがかりをつけておきながら、図々しくも相手に「批判してやっている」「批判されるのはオマエが悪いからだ」と罪悪感を押し付けがち。挙句に、「批判している自分は批判されている相手よりも『正しさを理解している』『格上』だ」とばかりにマウンティングをかましてきたりする。まるで丹精込めて作った作物を盗み食いした挙句に「マズい。美味しく作るための努力が足りないんじゃないか??こんなので金をもらおうだなんておこがましい」「コレを食べたせいで腹をこわした。気分が悪くなった。謝罪しろ!」とでも言わんばかりに、偉そうにできちゃったりもする。

しかも相手が著名人だったり影響力が大きい人だったりしたら、タダみたいなコストで「大金星」「ワンチャン」狙えちゃうんだから、そりゃあ、「批判」(※「批判」している本人の主観です)がやめられない人も後を絶たないでしょ。今回の痛ましい自死も、そういうことの延長線上にあったのではなかったのか。


つまり、ざっと整理すると

・現状、多くのケースでは「批判」と呼ばれているものは、「客観性を装いつつ主観に過ぎない言葉」として使われてしまっているんじゃないか。

・どんな言いがかりであろうとも、「批判」を名乗るコストは限りなくタダに等しい一方、その自称「批判」の正当性を検証するコストは比べ物にならないほど高くつく。

そういう状況で「批判」に「客観性を担保する」というのは、本来とても難しいことなんじゃないだろうか。

そう考えると、「批判」と「誹謗中傷」をわけるのは本当に困難であることがわかる。敢えていえば、「客観性の担保に実際は失敗している、しかし客観性を装い、本人も客観的だと信じている批判」というものこそが「誹謗中傷」の1つにあたるのかもしれない。もちろん、これは法的な話をしているわけじゃないし、一般的な「批判」と「誹謗中傷」をわける厳密なラインを探るのは想像以上に難しいのでは…? という話でしかないのだけれど。

「批判」が「誹謗中傷ではない」ことを示すための正当性・妥当性・客観性を検証するためにも批判が必要になるし、その批判を検証するために批判の批判が必要になって、その批判の批判を検証するために批判の批判の批判……

そんなのに延々と付き合う人は稀なので、結局どっかで切り上げて「どれを採用するかはその人次第」という、どこまでも主観の連続でしかなくなるんじゃないかな。

で、そうなると、さっきも言っていたように、「批判」する側、攻撃する側が大変有利になる。なにしろ適当な言いがかりつけても、事情を良く知らない人から見たら「客観的に見える」「欠けている部分を見抜いている」ように見なされやすいんだから。しかも、基本的に批判する側はいつも後出しジャンケンであり事後諸葛亮。その人数も、批判される側よりも圧倒的に多い。多勢に無勢がデフォなんだからね。

だから一般的に「批判」と呼ばれているものの中には、相当雑・かつ暴力的になって、事実上誹謗中傷になってしまっている実態も多いように思える。

ときには批判のための批判でしかない難癖であっても、「もっともらしい正当性」をつけて、火のない所に煙を立てること、言ってしまえば「冤罪」をでっち上げての「私刑」を誘発させることすら可能になる。

なんでもないようなところにも「問題」を「開発」してでも創り出し、激しく責めたて、難癖をつける。でも、それを見かけた事情を良く知らない人は、「火のない所に煙は立たぬ」として、批判にも一理あるんじゃないか?叩かれる理由があるに違いない? アイツは叩かれるべきなんだ! と思ってしまったりもする。この時点ですでに、「批判」した側にとっては勝ったも同然なのである。あとは、こういう「共感」を利用して、⇩の記事で話したような具合で

エコーチェンバー的に他者へと「怒り」「憎しみ」「敵意」をどんどん伝染させていけば、実際には会ったこともない、良く知らない人をイメージ先行で大勢で吊し上げての集団リンチが出来上がる。


まるで「お客様は神様」みたいに、無条件に「客観性」を尊重するのも大事だけれども。その「客」って実は、モンスタークレーマーみたいなのだったり、そもそも「客」ですらないとき、たまーーーーに、ありませんか?

 なーんて。



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