災害は、必ず2本立てでやってくる。

現代ビジネスに、新しい執筆記事が掲載されました。

今回の新型コロナウイルス騒動でも顕著だけれど、災害は必ず2本立てでやってくる。

目に見える災害本体と、目に見えない社会不安。

社会不安、人心の乱れによる被害は災害本体に劣らず深刻でありながら、目に見えない分、そもそもあまり被害として認識もされにくく、対策も軽視されがち。実際には、歴史上も社会不安のせいで自殺者が出たりとか虐殺が起きたりとか相当深刻なのに、「人の気持ち」が引き起こすリスクは軽視される。

今回の新型ウイルス騒動でも、日本人最初の犠牲者は自殺者だった。

もっとも災害本体と社会不安とが区別されにくいといいつつ、実は、解決した状態はそれぞれ「安全」と「安心」みたいに、割と無意識に区別されているのだけどね。

しかし、この「安心」というのが、実に厄介。

福島でも、豊洲でも、これが大きな障害になって大きな犠牲やコストを払う羽目になった。

いくら客観的な事実を示しても、安全であろうとも、人の「お気持ち」次第の問題である以上、「安心」という解決を達成させていく手段は限られる。それを、かつては宗教などが「鎮める」役割を担っていたわけで。

だから、古代の日本でも災害時に改元をしたり大仏建立したりするのは、人心を「鎮める」という点で大きな意味があったのだとは思う。世界中で宗教というものが求められてきたのは、「安全」以上に「安心」を得るためだったのだろう。

転じて、今。

宗教の影響力が弱まった現代社会において、「新型コロナのデマ拡散」がツイッタートレンドに上がる中、つまり「安心」を得るための手段が限られている中で。

社会不安との向き合い方と解決への道筋を、改めて考えなければならないのではないかなー、と思うわけですよ。加えて、現代の社会不安に対しメディアの報道姿勢がどういう作用を起こしてきたのかにも注意しつつ。

今回の現代ビジネス記事では、敢えて本文中では新型ウイルス騒動には触れず、9年前の原発事故で起こった状況からの今を述べています。

しかし、この前例と状況から、今、学べることは多いはず。

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