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 「お月見どろぼう」 と 天竜の「月」

ダレかさんとナニかさんの花畑_No.02_

「月」へ行く

「行く…か」ハンドルを手に、ボクはつぶやく。
 でも、助手席にはダレもいない。取材行はたいがい一人だから、いつともなくひとつ ようになっていただけ。

 いまは〈新東名〉浜松・浜北ICから、信州街道(国道152号)を伊那・茅野方面めざして北上する。天竜川に沿って辿りゆくこの道のはじまりは、山岳修験の秋葉権現へ参詣の秋葉街道であった。…といって…
 とくに目的があったわけでもない。ぼくん家にも むかし〈かまど神〉荒神こうじんさんのお札があったから、縁近い〈火伏ひぶせ神〉の秋葉さんにご挨拶を  という、殊勝な心がけ。

  かつて「火事と喧嘩は江戸の華」なんぞと  半分ヤケッぱち気味にも呼ばれた東京の秋葉原あきはばら。〈電気街〉で知られた町もじつは 、 この秋葉権現を勧請、鎮火神社として祀ったのがはじまりでした。ですから元は「鎮火原ちんかばら」。それが後に「秋葉神社」に名を替えてから、なぜか「あきはばら」になっちまったんダ…と。これは明治生まれの父親からのウケウリです。

 「行く…か」の  つぶやきがもれたのは… 〈天竜下り〉の船着き場をすぎ、両側から山が迫ってくるあたり。まったくの偶然で、川の流れにきこまれるように側道(県道360号)へと入ったすぐのところ。
 流れの反対側の路傍には、高々と宣言するように「月(Tsuki)3㎞」と標識があったからで。ふと(ここでならなるほど、いいお月さんと出逢えるかも知れない)気になりました。

「秋葉さん」より「お月さん」

 旅人は、風景とともに地名にも敏感なもの…ですが。
 このときは行く先があったので、「行く…か」は(あとで…帰りにでも)の備忘びぼうメモがわりのつもり。にもかかわらず、天竜スーパー林道を走って秋葉神社・上社に参る頃には、もう  どうしようもないくらい、帰途の〈寄り道〉が愉しみになっていたんです。
 こういうのをかれたようにって  いうんでしょう。気がついたら…暮れなずむ「月」の集落にいました

 〈天竜美林〉とば口のあたりは、また天竜やぶきた茶の故郷。
 子どものころ童謡『茶摘み』から想像された風景は、広い原っぱのようだったのですが…ほんとの茶畑は山がちな傾斜地こそが  お似合い。

 集落(…といっても目に見える範囲には10軒たらず)の道端に車を寄せ、エンジンも止め〈けはい〉を消して、月の出を待つボク。
 その情景をいえば…ひょっこり…風なんですが。でも、やっぱり場ちがいな余所者が紛れこんだ感じに違いはなくて。土地人には知られないように、心境はほとんどジッと  ひたすら身を潜めていたんです。
 
 〈月〉にはボク  つよい想いがあって。
 もちろん冴えた三日月も佳い。むかしは麗人の眉にもたとえられた糸のような…でも、そのおもむき  ふと病的。そうですね、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』みたいな。
 それよりだんぜん、一切の雑念よせつけない満月(望月)のほうが佳い。そう、シートン動物記『狼王ロボ』のイメージですね。遠い日のいつだったか…本の表紙かアニメ映画のポスターかで観た覚えのある…岩山のてっぺんに独り立って吠える  やっぱり満月にかぎります。
 力みなぎる満月に逢うと、ぼくはいまも、オオカミの遠吠えマネて仰向き、指先で喉笛  撫でながら「ワォ~~ン」と吠えてみたくなるんデス。
 
 …けれども その日は  あいにくの曇天どんてん。待ち侘びるボクをさんざ待ちぼうけさせたあげくに、やっと山影から顏をだした月は平凡な半欠け。ごくありふれた平ぺったいだけの月に  これといった感興もわかず、中途半端な心もちを「月」にのこしたボクは、ショボンと家路いえじについたのでした。

お月見のお供え(ウィキペディア)

なに!?  お月見どろぼう

 もうひとつの「行く…か」は、もっとずっと時をさかのぼった少年時代。小学4年か5年生の頃の〈中秋の名月〉十五夜の宵。
 声をかけたのは町内のガキ大将で、それに「うん…行こう」と応じたボクは、ひきいられる弟分のひとり。
 このドキドキのヤクソクごとのために少年たちは、「ガンドウ」と「ヤス」みたいな突きん棒と、物入れのビニール袋とを、ひとりひとり持参していました。でも  いったいナニをしに…

 じつは  ボクたちガキども、これら用意の道具を手に手に  いざこれから「どろぼう」働きに行こうというので。(なんかよくわからん…)キンチョウ感に  しきりと唇を舌なめずりしておりましたっけ。

 この戦後まだ10年かそこら、昭和20年代後半ころの世相は、いまの人たちには(なんのこっちゃ)でしょうから。ちょい  お披露目おひろめ

 いまは伝えるお家も少なくなった季節の風習、風流ごと。桜花の眺めを愉しむ春の「お花見」と同じ、秋の「お月見」。
 もとは、月を望む縁側に小机など置き、ススキの穂を飾り、お団子や蒸した里芋などをお供えして、実りの収穫に感謝し翌年の豊作を祈る、素朴な行事からはじまったと思われますが(注1)。
 このとき歌舞・音曲に酒盃という祝宴の風をもちこんだのは、さすがホモ・ルーデンス(遊ぶ人)のおとな・・・たち。あとから子どもたちのために考えだされたアイディアが「お月見どろぼう」って  ところです。

「どろぼう」だけど「ぬす」とちゃう

(……で、じゃ「お月見どろぼう」ってナンなんなのさ?)
「十五夜・お月見」のときにだけ、子どもたちだけに認められた、お月さまへのお供えもの盗みが許される  遊びです。
 むかし月は神聖なものとされたとき、同時に、授かりものの子どもは月からの使者とされてましたから。コレは神聖な者同士、月と子どもの間で許される遊びごと・・・・というわけデス。

 ぼくは後日、取材の旅さきの  とある村里で十五夜の日。五穀豊穣・健康長寿・家内安全を祈願して行われる  大人と子どもの「綱引き」行事に出逢ったことがあって。この遊びで勝つのはいつも子どもと決まってました。

 ま…そんな故事来歴こじらいれきがあての「お月見どろぼう」。
 ぼくたちの場合は、「ガンドウ(龕灯・強盗)」といっても、時代劇映画の捕り物に登場するように本格なものではなくて。子どもの手づくりですから ごく簡素な、大きな缶づめの缶を横構えした上に針金の持ち手がついただけ  のもの。
 魚を突き刺して獲る「ヤス」も、子ども版のそれは竹の棒に大クギを縛りつけただけ。ビニール袋は戦利品容れでした。
 
 出かけるのは、お隣り地区の住宅街。まだ戦災の焼け跡がのこる東京の郊外の、狙うのは  それこそ「うさぎ小屋」の粗末な家々です。
 住まいの囲いといっても、子どもならたやすく潜り抜けられる竹垣がほとんどで。なぐさめの狭い庭に面して板縁があったりする…そこに拵えられた祭壇にお供えが載ってて、そこが「お月見どろぼう」の戦場でした。

  ただ「どろぼう」ったって商売じゃないんだし。なにしろ子どもですから…その家の人に気づかれないように  こっそりるのはタイヘン。
 垣根を潜って…「ガンドウ」の火を吹き消して…お団子やお芋を取って袋に入れる…だけのことに四苦八苦。クギの錆を落としただけの「ヤス」なんか  てんで役に立ちゃしません。それで、ふと気がつけば  その家の人がカーテンの陰に隠れていたりして…知らんぷりしてる…んですよね。

 ひとまわり終えると、「お月見どろぼう」どもは  もうクタクタ。皆んな黙って、戦利品を見せあったり分けあったりして、ひとつふたつ食べたらオシマイ。叱られないうちに吾が家へ帰ります。
 満月のもと…びくびく、すごすご…。
 それ一度っきりで「お月見どろぼう」の習慣もオシマイに。
 きっと、関係者のあいだで「この習慣は望ましくない」ことになったんだろうと思います。

ルーツはどこ…これから先は…?

 いまだにフシギなのは、「お月どろぼう」って呼び名さえボクは知らなかったし、気がついたらはじまっていて、しかもすぐに消えちまったこと。 
 これもずっと後のこと  になりますが……
 あらためて〈月と民俗〉のことを調べていたら「お月見どろぼう」に出逢って、叢雲むらくもが晴れ  スッキリ満月の心境になったことを想い出します。 

「お月見どろぼう」という  この奇妙な風習のルーツは知れませんが。おもに西日本に多く見られたものらしくて。
 そういえばボクが生まれ育った神奈川県川崎市というところは、東海道線から海側は京浜工業地帯の工場群、陸側はそこに働く人々の住宅街という立地。さまざまな地方から転校してくる子たちによって、ぼくたち都会っ子は新しい遊びをずいぶんアレコレ教えられたものでした。

 そうして、もうひとつ。
 あの天竜の「月」集落にも、「お月見どろぼう」があったんだそうです。ここでは狐のお面などで顔を隠した子たちが、「お月見どろぼうで~す」と声をかけながら、お団子やお菓子をもらって歩いたもんです…と。
(ボクらの頃よりは新しそう…ですけど、それだって  いま現在はどうなっているのか…)

 そういえば、満月の天竜の「月」を訪ねてみたい…というボクの望みも、叶わないままになってマス。


(注1)芋名月…って別名が「十五夜の月」「中秋の名月」にはありますけ
    ど。これも、この季節の作物サトイモにあやかったもの。「十三夜
    の月」には「栗名月」や「豆名月の」の別名があります。


 


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