私が親に伝えたかった事。
私の両親は「仮面夫婦」だった。
外ではいつもにこにこしているのに、家に帰ると急に喧嘩が始まる。些細なことで、口論になって、そこから大きな声で罵り合ってばかりいた。
子供心に「何かできないのかな?」
「お父さんとお母さん、仲良くしてくれないのかな?」といつも考えていた。
「ねえねえ、お母さん。お父さんに少しやさしくしてあげてみてよ。」
「お父さん、お母さんいつもおうちの事とお仕事で疲れているよ?」
少し仲良くしてほしくて、届いてほしくて、
笑っている家族が欲しくて、
でも、小学生の言葉ではうまく伝えられない。
帰ってきた言葉は、意外な言葉だった。
「あんたの意見なんか聞いてない!」
「子供のくせに。」
別にほめてほしかったわけじゃない。
ただ、ちょっと良くなってほしかっただけ。
どうして、そんなに苦しそうなんだろう?
なんで、一緒に居るのに幸せそうじゃないんだろう?
自分たちで一緒に居たいって言ったから結婚したんじゃないのかな?
だから、私は家族が嫌いだった。
ただ血が繋がっているってだけで、
価値観も、思考も感性も、全然違う。
他人よりも理解不能な、家族と言う存在。
大人になってからも、何かと干渉がひどく
心配してるのよ、と言う言葉を振りかざしては
監視されている生活が息苦しくて、
就職して1年ですぐに家を出た。
それでも、もう一度理解したいと思えたのは
社会人になってからだ。
ひとりで生きる自由と、プレッシャーの間で、
いろいろと考える機会を与えてもらった。
沢山の素晴らしい家族のカタチも、仕事を通してみることが出来たことも大きなきっかけにもなった。
彼ら彼女らは、温かく自然にその輪の中に「他人」の私を招き入れてくれた。初めて知った。こんな家庭もあるのかと。血など繋っていなくても、確かにその空間に流れる空気は、温かく居心地のいいものだった。
そこには、子供の頃に私が憧れていた
「家族」の姿があった。
あの頃、伝えられなくて、傷ついた幼かった私は一体「何を」伝えたかったのだろうか?今私は、大人になって、何を本当は伝えたいと思っているのか?
長い間わからなかった事。
それは「信じてほしかった」と言う事。
親だから、心配するのも、
幸せを願うから、干渉するのも、
きっと私を信頼してくれていないのだと。
ずっと感じていた。
それが、悲しくてつらかった。
子供の頃に否定されたことも、
きっとずっと、引っかかっていたんだ。
想いの源泉は、いつもシンプルだ。
ごちゃごちゃと後付けをした、それらしい理由を取り除いてみたら、
たった一言になってしまうんだ。
けれど、その想いの源泉から湧き出す言葉は
純粋ゆえに純度が高い。
「信じてほしい」
そのことを、きちんと伝えるのに1年かかった。
何度伝えても、表層を撫でるように、深いところに浸透していかない想い。
歯がゆくて、悔しくて、諦めそうになる。
でも、どうしてもあの時は伝えたくて、
わかってほしくて
目を見て、真正面から、何度も何度も伝え続けた。
伝えると言う事が、こんなに大変な事なのかと
初めて思った。
話す事は簡単なのに、言葉は理解できるのに
想いを伝える事はとても難しい。
ある時、ふっと空気が緩むように
「分かったわよ。ちゃんとわかった。」
そういわれた瞬間に、ずっと滞っていた血液がサアーっと全身に巡っていくように心がふわっと軽くなった気持だった。
純度の高い「想い」を見つけるには、
沢山の不純物を取り除かなくちゃいけなくて
まるで蒸留酒を作っているかのように、
時間と手間がかかるんだ。
けれど、その「想い」が凝縮出来たら、
ちゃんと伝えて。
ふわりと香るウィスキーのように、優しくて力強い
その空気に包まれる瞬間を、経験するために
私たちはたくさん悩み、いろんな経験をして、
その答えを得るのだと思うから。
それまでの過去の自分が、
その「想い」を今に伝えるために、
重ねた時間を、どうか今に繋げるために。