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励ましのサイエンス 其の11 今村久美さんの場合

カタリバは今年で創業20年を迎えました。今回、「励ましのサイエンス」というお題をいただいて、自分は何に励まされてカタリバを始めたのだろうかと思い出していました。

私は慶應SFC出身で、やなさんの後輩ですが、入学したばかりの頃、ものすごく自己肯定感が低かったんです。

日本中から優秀な学生が集まって、論理的で自信に溢れた人たちに囲まれて、一方、私は読書して情報をインプットするにも人の5倍10倍かかる。都会で不自由なく育ち、潤沢な教育投資を受けてきた同級生たちに対して、私は田舎育ち。いつも引け目のようなものがありました。

私の地元では、電車は一時間に一本しか来ない。でも、そんな話をすると「行ってみたい」と言われたんです。都会育ちの人には、むしろ新鮮で、興味の対象になるのかと。

それまでは同級生たちと自分を比べて、何もかも足りないから追いつかなければいけない。そう思っていましたが、実は足りないのではなく、ただの違いであり、個性なのではないか。電車を一時間待つのは当たり前という肌感を持って18年間生活してきたこと、海外留学したこともないこと、裕福で優秀な人ばかりに囲まれて生きてきたわけではないことは、もしかしたら宝なのかもしれない。そう思うようになりました。

10分も待てば電車が来るのが当たり前。そんな感覚を持った一部の人たちが国を動かしている不条理を感じていましたが、そうした人々が主流だからこそ、逆に自分にできることがあるんじゃないか。足りない側、遅れた側にいる立場だからこそ、いろいろなアイデアを出したり、独自の課題の取り上げ方、切り取り方ができるのではないか。特に教育の領域では、そういう感覚が必要とされている場面があるのではないか。

それまでずっと劣等感だったものが、これもひとつの資源になるんだと気づいた瞬間がありました。その後、大学在学中の2001年にカタリバを創業しましたが、それが自分の原動力になっていたと思います。

とはいえ、当時、NPOを立ち上げる人は少数派でした。慶應SFCということもあり、同級生たちはITベンチャーを起業するか、有名企業に入社する人ばかり。私が自分の仕事に自信が持てると思えたのは、始めて15年くらい経ってからです。

NPOでは、ある単一の社会課題を発見して、課題解決のためにこういう事業やりますとプレゼンテーションすることが多いと思います。それはわかりやすいし、共感を得やすい。でも私たちがやっていることは、子どもたちに「対話」と「ナナメの関係」を提供したり、地域の中でみんなでできる教育の形を探すなど、特定の課題を解決するというよりも、教育フィールドで新しい楽しみ方を探し続けているようなところがあります。だから一言で説明できない。ボードやコンサルタントの方々から「結局何がやりたいの?」と問われて、いや、わかりやすく言えないんです、だって教育の現場では曖昧なことがたくさん起きているからと言いながら、目の前の問題に取り組んできました。

その根本には、何かが足りないという気持ちが常にあったように思います。

東北の被災地で活動していた時も、いろいろなものが壊れてしまっていて、何もかも圧倒的に足りない。でも、だからこそ新しい形を探せるかもしれないと、みんなで話し合いながらずっとやってきました。人と違うこと、足りていないことは、時に力になる。私自身、それに突き動かされてきました。

尊敬する方々からの励ましは、もちろん嬉しいです。でも自分を突き動かすのは「あんなこと言われちゃったけど、次に会った時、なんて説明しよう」という危機感だったり。ちょっとMなんでしょうか(笑)。

やなさわ:面白いですね。ちなみに、人を励ます時には、どんな風にされるんですか?

今村:励ますって難しいことだなと思います。私たちが関わっているのは、人よりも困難な状況にあったり、なかなか自分では解決できないような目に遭っている子どもたちも少なくありません。そこで「大丈夫だよ」「がんばりさえすれば夢は叶うよ」なんて励ましの言葉をかけても、その子に嘘をつくことになってしまう。

でも、やってみたらわかることもあるから、一緒にやってみて、その子ならではの楽しさを見つけることに伴走しています。ただそれは、励ますという言葉にはうまく収束できない。

やなさわ:カタリバでは、子どもたちの居場所をつくることにずっと取り組んでおられますよね。それは間接的に励ましていると言えるのかもしれない。

今村:そうですね。言葉によって励ますというよりは、一緒に考える場を常につくってきたと思います。こちらが答えを持って導いてあげるというよりは、一緒に考える。この問題難しいね、わからないねと言って、一緒に調べる。子どもに伴走しながら、相手がわからないことを、こちらもわからないんだよと、できるだけそのまま伝えることを大事にしています。

たぶん言葉によって励まされるというよりは、やってみたらできた、わからなかったことが理解できたという経験を通じて、人は自分自身を励ますのだと思います。その経験の積み重ねが原動力になり、生きていくための力になる。私たちは、そのプロセスに伴走しているに過ぎないという思いは常にあります。

冒頭でお話しした私の大学時代の経験にも通じるのだと思いますが、都会で裕福に育った人たちにすごく劣等感がありました。受けてきた教育も、それこそ親御さんの社会的地位も違う中で、持っているリソースが圧倒的に違うのに、同じ土俵で競っていかなければいけない辛さに憤りのようなものがあって。

でも経験が違うことは、劣っているということではなく、自分だけのオリジナルなのだから、そのあり方で生きていけばいいんだとリフレーミングした瞬間があって。まるでメガネを取り替えるように視点が切り替わった。かけているメガネが人と違う時、自分のメガネを通じて見える世界を信じてもいいんだなと。劣等感こそが自分にとっての力になり得る。「みんな強くなれるよ」「勝てるよ」という励まし以上に、その感覚によって人は励まされるのではないかと思います。

やなさわ:なるほど。劣等感や自己嫌悪は、往々にして直視したくないネガティブな感情とされています。劣等感を感じる相手なんか、できれば回避して生きていきたい。でも、自分の中にある劣等感にフタをするのではなく、直視することで励まされることがある。捨ててしまいたいネガティブな感情こそが、自分を動かす資源になり得るということですね。

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