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励ましのサイエンス 其の7 山口周さんの場合

山口 周さん
独立研究者・著作家・パブリックスピーカー

大学を卒業して電通に入社しましたが、とにかく出来の悪い社員でした。新人なのでチームの下っ端として見積を作成したりFAXを送ったりするのですが、数字は間違えるわ、言われたことは忘れるわ。

担当していたキャンペーンの初日に出社すると、デスクが電話メモで溢れ返っている。「ポスターが店に届いていない」「至急折り返し電話ください」という伝言で、デスクの下を見ると未発送のポスターが山積みになっている。入社4年目にストレスで肺に穴が空きましたが、僕の周りで仕事していた上司や同僚の方がもっとストレスを抱えていたはずです。

仕事が合わないという以前に社会人としてやっていけないんじゃないかと鬱々としていた時、たまたま飲み会で一緒になった先輩にボソッとこう言われました。27歳の時だったと思います。

「お前、率直に言って、こういう仕事は向いていないと思うよ」

「でもいまやっている仕事は、いずれ後輩が入ってきて、やってくれるようになる。たぶん、お前には何かのセンスがあるから、不得意なことを頑張るより、得意なことを仕事に活かす方に意識を集中した方がいいよ」

「人生の後半戦では、きっと独自のポジションがつくれるよ」

そんな言葉だったと記憶しています。

僕は長期的な視点に立って物事を考察したり、コンセプトを考えるのが好きだし得意です。でも当時、そんな力はまったく仕事の役に立たないと思っていました。きちんと見積書をつくったり、優先順位をつけてタスクを進める技術の方がはるかに優れていると思っていたので、得意なことを仕事に活かそうなんていう発想はまるでなく、ただ苦手な仕事をこなすのに必死で、そのストレスで自分も周囲も不幸にしていました。

その励ましに有効性があったかというと、よくわかりません。僕の仕事ぶりは相変わらずでしたし、根本的な問題はひとつも解決していない。しかも、今その瞬間においては、僕が仕事ができないという前提に相手も立っていて「そんなことないから」「誰も怒っていないから」という現状否定さえなく「この仕事はお前に向いていないし成果も上がっていない」とあるがままを肯定した上で「でもたぶん将来なんとかなるから大丈夫だよ」と根拠のない言葉をくれているわけです。

でも不思議なことに、その励ましをもらってから、すごく楽になりました。問題は何ひとつ解決していないけれども、生きることがぐんと楽になった。「自分は仕事ができない」ことにばかりフォーカスしていた思考がふわっと広がったように感じました。

その後に入社したボストン コンサルティング グループでも同じようなことがありました。

あるプロジェクトでトラブルが起こった時、当時のシニアパートナーから呼ばれて「あまり心配するな。お前はセンスがあるから、大丈夫だから」と言われました。「上司に気に入られようとか高評価を出そうとか余計なことを考えずに、自分がいいと思うアウトプットを出し続けていれば絶対うまくいくから」と。それは本当にいいタイミングだったのだと振り返って気づきました。

戦略コンサルティングファームで脱落していく人は、ほぼ自滅だと聞いたことがあります。「あ、もしかして俺、評価されていないかも」と一旦思い始めると、どうやったら評価を上げられるかということに時間と労力を使い始める。ただでさえ競争の激しい組織で、そういう答えのない問いに脳のキャパシティを取られ始めると、途端にアウトプットが出なくなります。そして悪循環に陥ってしまう。「悩む」と「考える」は別物です。「悩む」は答えの出ない問いですが、「考える」は解法を探すことです。

きっと僕もその悪循環に陥りかけていたのだと思います。そのタイミングを見抜いて「自信を持っていい。絶対大丈夫」と言ってくれた。自問の種類を変えてくれるインプットだったと思います。

そもそも人が悩むのは、何か問題があって、それが自分の手に余るような大きさだったり、解決法が見当たらない時ですよね。であれば、問題を抱えた人への励ましの技法は「あなたが思っているほど大きな問題じゃないよ」と気づかせたり、問題解決の方法を教えてあげることになるのでしょう。でも難しいですよね。その問題について一番考えているのは自分ですから。「大丈夫だよ」「頑張って」と無責任に言っても逆効果になることもある。

ダメな励ましってあると思うんです。典型的なのは、うちの親父のエピソードです。お袋が僕を妊娠していた時、子宮筋腫になって、痛みに七転八倒していたら、親父が「ラジオでも聴いたら気が紛れるんじゃないか」と言ったそうです。

これは問題解決の方法としてまったく有効性もなければ、問題の大きさも完全に捉え違えているわけです。いまだにうちのお袋は思い出してぶつぶつ言っていますが、いや、これは悲惨極まりないですよね。だって心から良かれと思って励ましたらやぶ蛇になって、下手したら一生の負い目になるわけです。「こうしたら解決できるんじゃない?」と言ったところで「そんな方法はとっくに考えた」「そんな簡単に解決できると思っているのか」と思われることもありますし、「大したことないよ」「大丈夫だよ」と声をかけたところで「俺の辛さを全然わかっていない」と思われることだってあるわけです。励ましがきっかけで縁が切れることになったら、目も当てられません。とばっちりです。

やなさわ:なるほど。世の中には「ダメな励まし」もある。その視点はありませんでした。

山口:励ましというのは通常、ネガティブな状況にある相手に対して行われるものですが、ネガティブな状態をなかったことにすることがポジティブでは決してない。イギリスの詩人ジョン・キーツはネガティブ・ケイパビリティという言葉を使っています。理由や因果関係を拙速に求めるのではなく、答えの出ない曖昧で不確実な事態に耐える力のことです。

励ましの歌というと僕は竹内まりやの「元気を出して」を思い出します。よく考えると、あの歌詞は「ダメな励まし」の典型かもしれません。失恋で苦しんでいる人に対して「元気を出して」と言っても無理です。「慰めてくれてありがとう」とは思うかもしれませんが、放っておいてくれと思うのが関の山ではないでしょうか。ネガティブな事象をなかったことにするのではなく、そのまま受け入れる態度が自分を楽にすることもある。

やなさわ:山口さんが誰かを励ます時には、どんな風にされるんですか?

山口:僕は励まし下手だと思います。でも、そんな場面では「運が悪かったんだよ」という言葉をかけることが多いように思います。だから あんまり気にしない方がいいと。

たとえば仕事がうまくいかず、プロジェクトを外されてしまった。そんな時、因果を求めたくなりますよね。自分を責めたくなったり、他者に責任を転嫁したくなったり。今回失敗したから、次もうまくいかないんじゃないかと気を回したり。それは「考える」ではなく「悩む」です。

國分功一郎さんの『中動態の世界 意志と責任の考古学』という本があります。文法では受動態と能動態しか習いませんでしたが、たとえば「私が会社に行きます」と言った時、それは完全に私の自由意思なのか、上司の命令や就業規則に強制されているのか。完全な能動態でもなければ受動態でもない。その中間に中動態があると書かれています。

何か良くないことが起きた時、すぐに因果や解法を求めるのではなく、つらい時はつらいまま、無理にポジティブに変換しようとしない。そんな白黒をつけることに労力を使うよりも、あるがままに現状を受け入れて「悩む」から頭を解放する方がいい場面はたくさんあるはずです。

思えば電通やBCGの先輩が当時の僕にかけてくれた励ましの言葉は、ひたすら「悩む」悪循環から楽にしてくれる言葉でした。悩んでも仕方ない。ただ時間が経つのを待つしかない時もある。良い励ましは、きっと呪いを解くものなのでしょう。それが僕を助けてくれたように思います。

やなさわ:なるほど。ネガティブなものはネガティブなまま受け入れる。その上で、時間軸やフォーカスを切り替えられるようなインプットを伝えてみる。それが有効な励ましになるということですね。

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