見出し画像

表現の自由

「配信で打ち明けてくれたセンチメンタルな内容はTwitterみたいにいろいろな人が見れるSNSでは触れず配信の中で消化しよう」っていうぺろりんの弟の言葉、7歳とは思えない立派な言葉だった

…7歳児がそんなこと言うわけないだろ

ことの発端はでんぱ組新曲MVのYoutubeのコメント欄

活動休止していたリーダーがセンターで復帰したのを受けて、
これがでんぱ組だ、これじゃないとでんぱ組じゃない
みたいなコメントが多かった
(実際はもっとあからさまで悪意に満ちているのもある)

昔のでんぱ組が好きで今のメンバーは好きじゃない
なんなら今のメンバーは私の中ではでんぱ組じゃない
と言わんばかりの意味合いが含まれているのだろう

「活動休止していたメンバーが戻ってきたから祝福してるだけでしょ。
メンバーが揃ったんだからいいことじゃない」
と言い訳も準備している

これまで何度も見てきた光景
昔の体制が好きだった人が一見綺麗に着飾って
今の体制への不満を垂れ流している気に食わないものを否定したいけど、
自分は綺麗に見せたいという人間の汚さがよく見える

普段から言葉の裏まで読み取って考える人たちにとっては
この手のコメントは愉快な気持ちにはならない

ただ、この手の話題に対してぺろりんが配信でお気持ち表明できるくらい
ぺろりんの味方が増えたことが嬉しい限り
(昔はぺろりんのヲタクは圧倒的マイノリティーだったので、口が裂けても言えなかった)
「表現に気をつけます」と言ってるヲタクが気になったくらいだ
(これまでもっとひどい人がいたんだ、気にしないでくれ)

表現の自由とは何か
表現の自由を振りかざす人ほど、
なんのための表現の自由なのかという観点が蔑ろにされている気がする

コトバンクに結構な分量でまとめられていた
https://kotobank.jp/word/表現の自由-121245

これによると、表現の自由は①個人の人間としての価値実現、②民主的な社会を維持する役割 と大きく二つの役割があり、紐づいて4つの機能がある。
政治は置いといて、二つの機能は下記のとおりである。

第一は、個人の自己実現を保障する方法としての機能である。すなわち、表現行為は、思想の発達や知的探究や自己確認のために不可欠であり、そうした精神の発達によって、個人は人格および人間としての可能性を実現することができる。第二は、真理に到達する手段としての機能である。すなわち、もっとも健全でもっとも合理的な判断は、ある命題を支持するために、あるいはそれに反対するために提出されるあらゆる事実と議論を考慮することによって、初めて下すことができる。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

実現したいことを達成するために表現の自由を勝ち取った歴史がある。
思ったことを垂れ流すのではなく、何を伝えたいかという対象を意識して発言してほしい。

最近SNSについて、ふと感じたことがある。

匿名だから本音が言える、というよりも、匿名だから自分のなかの悪の誘惑に負けてしまう、ということなんじゃないかなと思う。醜い言葉がいつも本音とはかぎらないから。

それは、相手を叩くことで俺はこんなことも言えるんだぜって言う
自分が優位に立っていると思いたい虚栄心とか、
そう言うしょうもない欲望に突き動かされた上での行動

そこに自由はないんじゃないか、と

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?