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私の中のニヒリズム

私はニヒリズム(虚無主義)という思考を知る前からニヒリズムのような思考をする癖がある。

世間の情報に晒され、大学の授業やレポート、研究発表をやらされていたときに「で、結局、これは何でやっているんだ?何か意味があるのか?」という疑問が生まれる。

恐らく大半の人は「化学の知識や資格を取って、安定したいい企業に入社し安定したお金を稼いで、結婚して幸せな家庭を築きたいから。」あるいは「与えられたものはやる、これは社会の常識!」「よくわからないけど、やる。」「やらないと怒られるから、後輩や周りに示しがつかないから。」という理由で頑張っていたのだろうか?

「それとも研究員になって何か人間にとって役立つものを生み出す!」というような志が高い理由で今やっている研究発表や課題を頑張っていたのだろうか?

いずれにしても私には、これらのことを頑張ってやる理由が見つからなかった。そのような情熱も持っていなかった。

それで将来のことを考えるとレポートや課題をやる延長で仕事をして、お金という対価を得て、食べていくためと欲望を満たすために働き続けるという選択肢があり、生きるということはそれが繰り返されるだけの虚しい作業でしかないと思うようになっていた。

一休宗純は「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬるを待つばかりなり」と言い、私は「まさに、その通りだな」と思った。

「①起きる」→「②学校や大学、会社に行く、あるいは他のお金を稼ぐための作業をする。」→「③家で過ごす、何か食べる、あるいは路上で過ごす」→「④寝る」

結局はこれの繰り返しで、②や③は変えられるとして好きなことをやって生活を営んでいるとしても、このループを繰り返すだけで、どんな人でも最後は必ず死んでいくという事実は変わらない。

しかも社会にはいくらでも代わりはいるので、私が死んでも生きてもどっちでもよくって、私が何かを頑張る理由が見当たらない。

それなのに、怒ったり、泣いたり、苦しんだり、悲しんだり、笑ったり、楽しんだりというような行為をするために、わざわざ苦労をして生きて、ただ死んでいくのだろうか?

あるいは、好きなことを仕事にして社会貢献や人を支えるために生まれてきたのだろうか?

そうなると人間というのは、あまりにも虚しく浅はかな生き物ではないか?と思った。「一体、何をやらされているんだ?生きる意味がない。」とも思った。それでも繰り返しの日常に流されるしかない自分は物凄く惨めな気持ちになった。

そして世間や友人、家族、自分のことすらも信じられなくなって、自暴自棄になった。全部どうでもいいと思った。

全部どうでもいいのに、それでも生きていく意味が知りたかったから色々と調べていたら仏教の浄土真宗に遇えた。聖教や法話を聞いていくと、この世の真実が説かれていて断定的でストレートな話や文章が多かったのでビックリした。(浄土真宗で教えられていることは後々、書きたいと思います。)

その教えの通りに生きていきたいと思って頑張った時期もあったが、聖教で言われていることが自分では本当のことか分からないし、むしろ聖教で説かれていることを自分に照らし合わせてみると悪いことばかりを無自覚でやっていて反発する生き方しかできなかった。

そういうわけで、私は真実なんて何一つ分からずに、自分が思い通りに生きられればそれでいいようだ。結局、この世は自分が快適に生きられればよくって、不快だとダメという自己中心的な枠の中でしか生きられないようだ。

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。(歎異抄)

世間も自分自身さえも真実が何なのか分からない嘘な存在で、今すぐ死んでもおかしくない存在だ。私が死んでから2500年も経ってしまえば私が本当にいたのか、いないのか分からない存在になるだろう。

しかし、念仏(南無阿弥陀仏)が私と一緒になって今、生きてくれていることが心強い。

相変わらず、私が人間が生きている意味はないという考えは変わらないが、今では念仏が生きる希望になっている。




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