なんでもかんでもストーリー化現象

なんでもかんでも、ストーリーにしてしまうのが得意。な気がする。

ここで言う「ストーリー化」は、ある出来事を話す際に、他人に理解されやすいように事実を脚色したり、時系列を直して、編集することである。これはまあ、完全に他者のため、他者に消費されることのみに使うんならいいんだろうけど、これを自己分析とか自己理解に使いだすとたぶん厄介なんじゃないかなとか思ってる。

ストーリー化した後に破壊しないといけない。いったん枠を作っといて、それを破壊して戻すという作業。

基本的に自分の性格は「ガキだなあ」でだいたいの結論は出ているけれども、それでわからないこともままあるし、このワードだけ繰り返し使っていると、だんだん自分がそこに込めている言葉の意味から、ただの傷つけ言葉、中傷言葉に落ちていってしまうので、破壊してまた「やっぱガキだな~」という発想に戻るを繰り返している。

なんで自己分析にストーリー化使うんじゃね~というのかというと、ストーリー化して破壊してまたストーリー化して、ならいいけど、ストーリー化!おわり!にすると、とーぜんストーリー化してる以上そこにあるのは事実じゃないので、とーぜん自己分析なんかに使えない。

というわけで、破壊するためにまた一回、「自分はストーリー化が得意」という話を、ストーリー化して話してみる。

自分はもともと、「通訳がいる」とよく言われた。小学校くらいだろうか? 話が全く通じないというか、わからないと言われた。そこはたぶん、今ここでnoteに書いている内容みたく、誰かに見せているくせに誰かに見せることをあまり考えていないというか、自分の言葉だけで話しており、そのニュアンスが身内の一部にしかわからない言葉ばっかりだった。らしい。(あとで姉に聞いた)

つまり自分の世界に完全に閉じた状態で、それをわかってもらえるもんと思ってた。ただ、身振り手振りとテンションの上げ下げ、ようは動物的な感情表現と言うか。それで通じるタイプだったので(というか、話が通じないからそういう手法を覚えたのか、どっちが先かはしらんが)、話が通じていない、という感覚はさっぱりわからなかった。

ただまあそれ一本でいけるわけもなく、中学高校はそれなりに孤立した。まあここでも、愛嬌があるので多少何とかなったが、うざがられ始めたところであった。でも不思議だったのが、ディベートはうまい、発表ごとはうまかった。文章に書いたり、話をまとめる時間があってから話すことはうまかった。

たぶん、すぐに目の前の話に即応するには、通訳が必要なごちゃごちゃ言葉でしか話せないが、時間があったらちゃんとまとめられるということなんだろーか?

ただ昔はそんなことわからんので、即応ごちゃごちゃ言葉で話し続けていたので、高校時代はマー――ジでだいぶ人にめちゃくちゃ怒られた。怒られたことしか覚えていない。

ここでストーリー化どころか早速破壊してしまうんだが、ここまで書いていると、「いったいいつ、どこでストーリー化の得意さが身についたのか?いつから持っているのか?」「そもそも、得意だと思うようになった出来事は何か?」ということがわけわからんくなってきた。

大学時代も、特に特徴的な出来事があったかというと、どうだろう?

あ、でも大学時代は小説を書き始めたのか。

思い出せば高校時代もSS書いていた。

そのあとに大学時代の文芸部で「ストーリー立て」はかなり覚えた気がする。それが自己分析にも役立つんじゃあないんすか、ってのはちょっと思い始めていた気がする。

ただ、社会人になってブログとかTwitter御囲いマンになってしもうてから、ストーリー化をいらんほうに覚えてしまって、なんか偉そうなストーリー語るマンに変化してしまったなーと思った。

Twitter、わかりやすいストーリーがみんな大好きなので、僕の実際の想いとか考えとかそんなこと知らんので、わかりやすいストーリー書いといてそれに載せてやれば勝手にみんなわいのわいの囲ってくれる。

それを一方的に悪いと言わんけど、それは自己分析自己理解がちゃんと完了している人が世の中をうまく回すために、完全に計算してやるならいいのだけど、自分はそこんところあいまいなまんま、わかりやすいストーリー化にハマってしまったもんだから、「わかりやすいストーリー(脚色されており、全く本当の自分とはかけ離れる)を支持される」ということを「自分が支持される」と勘違いしていた節があるのかなと思う。


ぼちぼち違和感を感じてきたので、ストーリーを破壊してみる。

ストーリー化の、「悪い覚え方」「偉そうな覚え方」とはいったい何で、それの何が、自分にとって問題なのか。それは最後に書いている「ストーリーへの支持が、自分への支持だと勘違いする」だけだろうか?

ストーリー化の悪い覚え方、偉そうな覚え方。特にTwitterでは、いかに偉そうにするか?がRTやいいねを伸ばすコツだと思っていて、そこに中身はいらないと思っている(もちろんこれは「単純にRTいいねを伸ばす方法」であり、ちゃんとそれ以外に必ず目的があるはずで(例えばRTいいねを伸ばして、仕事をもらうとか、そういう)、その目的を全く無視した伸ばし方である)。

例えば「これはバカ。~~~~~~(なんかわけわからんことぐだぐだ書いておく)。こんなことはあってはならない」とかなんとか書いていれば、「~~~~~~」のところはテキトーなこと書いてても勝手にRTいいねは集まってくる。「このツイートは何かを批判しているんだ!」と「批判している対象」がだいたいわかれば、その批判の妥当性とかそんなん置いといて勝手にバズる。

ちょっと話がずれたが、ともかく、Twitterで「中身のないストーリー化」を覚えてしまったのがあんまりよくなかったことだと思うし、それで支持してくれる何の価値もない人間を囲ってしまったことが、あんまり自分にとって良くないことだったのかなと思っている。

自分のすべてがきっちり詰まったものをネット上に流して、それが支持されるんであれば、それで自分がテンション上がる分にはいいだろうが、中身のないもんを出して、それでテンション上げていても、自己承認にも役立たないし、例えば狙ってやってたにせよ、仕事などにも全くつながらない。

そして、先に挙げた「ストーリーへの支持が、自分への支持だと勘違いする。」ということ以外のストーリー化の弊害だが、この言葉の裏には、「ストーリーへの支持は、ストーリーへの支持ただそれだけにしかない」ということにある。ようは、別にスゲー漫画描いて支持されて、その人の実体験が多少反映されていたとして、その漫画への支持はあくまでも「漫画への支持」であり、「その人それそのもの」への支持ではない。「え、作者スゲー!ってならん?」と思うかもだけど、それは「漫画の支持」の延長線上にある「漫画を描く技法への支持」というところが、作者に向かうだけで、作者の人生や存在そのもの、実体験を肯定するものではない。

それと同様で、普段語る話に関しても、他者に理解しやすく、盛り上げるために話したストーリーであれば、それは他者のために自分と切り離されたストーリーであり、「ストーリーとして語る」という時点で、ある程度自分と切り離されなければならないと思う。(これは自分のために切り離したほうがよい、という考え方なので、自己分析や自己理解がちゃんと確立していて、別にストーリー化にごちゃごちゃ振り回されない人はストーリー化していいのかもだけど)

そういう意味では、他者と何かを語る、ということで自己について得られるものって究極的には真実ではないので、結局前に語った「他者依存」というか、自分の理解すら他者に依っていすぎていた部分があったので、だから自己理解がうまくできてなかったのかあ、と最近思った。あくまでも副次的なもんとして得るのならいいのだけれど、自分の中の理解とか整理がないまま他者に語ることで得ようとしすぎていたというか。

わかりやすくいうと、「ストーリー化に頼りすぎていた」というのかな。ストーリー化は他者のためのもので、自分のためのものではないってことをわかってないまま使っていた、ということなんだろーか?

まあ少なくとも、ここに書いている話には、ストーリー化もくそもなくメタクソにしてあるので、自己理解のためならこんぐらいがちょうどいい気がする。

バズりたいならテキトーに話削っていい話やんのやんのお幸せストーリーをかく。それはもういい。


今日はこんなもんで。


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