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武蔵野の森散歩で感じる、地球と私の自己回復力。

晴天のこどもの日に比べ肌寒いどんよりとした昨日の朝でしたが、これはラッキー。
少し遅めの時間でも人出が少ないはず。

いつもは一人ですが、近所に住む年上の友人と(偶然を装って)待ち合わせして野川公園まで、長めの散歩に出ました。

青もみじのトンネルです。
いつもこのもみじのトンネルを潜るとき思わず声が出てしまう。心が洗われる。洗車機のようです。

武蔵野公園の広々とした草原のくじら山に出ました。誰も居ない…

深呼吸を思いっきりしました。

気持ちいい!

そういえば、痛いところが無い!

年度末から続いていた首肩頭の酷い痛みが、連休に入って散歩をしているうちに少しずつ、いつの間にか完全に消えています。
喉元過ぎれば忘れてしまうけれど、痛みがないというのは、もうそれだけで有り難いことでした。

三ヶ月ぶりに友と深く長い会話ができました。

何気ない言葉を交わすだけでもこみ上げる嬉しさ。どれほど実際に会ってじっくり話すことに飢えていたかがわかりました。(マスクと距離はしっかり)

野川の流れは、ハケの湧水です。
清らかで透明で、流れをじっと眺めていると私も浄化されていくような気がします。
友と話しながら、だんだん心の中が澄んできて、

日頃の悶々としていた悩み事に、思いも寄らない解決策の気付きをもらうことができたのです。

ところで、GW頃の時期に林の中で会える、キンランとギンランという野生の蘭をご存知ですか?
私は東京に引越してきてから、府中の浅間山(せんげんやま)で初めて知りました。
薄日の射す落葉樹林の中で、そこだけ淡く輝く妖精がすっと立っているような感じなんです。

小金井公園でも、ここ武蔵野公園や野川公園でも、なんとなく引かれるようにして分け入って、突然出会うように見つかります。
高さはだいたい30センチぐらい、ぽつりぽつりとで群生はしていないのですが、そこだけ何かが違うのですぐ見つかります。

これです。これがキンラン。

そして、これがギンラン。

どちらも開花しているところを一度も見たことがありません。どうやら花は半分だけ開くにとどめて静かにそっと居る感じ。
それから、森から連れて帰っても人工栽培することは極めて困難、園芸種は無いとのこと。だから余計に、妖精のように感じるのかもしれません。

どちらの近くにも必ずコナラの木が生えています。
キンラン、ギンランが養分を依存しているのが、コナラの根に養分を貰っているある種の菌根菌だから。コナラもこの菌にミネラルを貰うので、共に助け合って生きています。

でも、キンラン・ギンランを持ち帰って庭のコナラに寄せ植えしてもうまくいかないそうです。地下の土の中には菌根菌が何千種も居て、それがそれぞれが組み合わさって自然の中でうまく共生してるのものを、勝手な都合で切り取れないのですね。

地面下のネットワーク、多様種の繋がりの凄さを思います。

人も、自然も、無理やりは上手くいかない。偶然は必然。
誰もがそれぞれ違っていることや、それぞれが大切な存在であること。
気づいていないけれど、無数の繋がりの中で奇跡のように花を咲かせることができるのだと、キンラン・ギンランは教えてくれているようです。

人間が悶々としようが心配しようが、
世界の汚れた自然は淡々と浄化されています。黒かったベネチアの運河も今は透き通っているらしいですね。

季節も、淡々と進んでいます。
禍など関係なく花は散り実がなっている姿を眺めていると、抗うのではなく良い意味で諦めてうまく共生できないものかと。

野川からの帰り道に気の向くまま歩いて、またステキな暗渠道に出ました。

足の下には管を流れる水音がしています。S字カーブの緩やかな坂を上りながら、かつての用水路を遡る魚の気分を味わってみました。

2時間半、約10キロ、13000歩

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