雑感「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」

内田樹の「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」を読んだ。かなり前に読んだはずだが内容はほぼ忘れていた。
初読時はラカン側の関心があった気がするので、今度はレヴィナス側の布陣に立つつもりで、読み直してみたら、なるほど前よりよくわかる。

「無限」ないし「ある」の兆候としての「痕跡」「傷跡」(いつどこでできたか自覚がない、ギョッとする痕跡)というイメージであったり、「ある」が言葉の、つまり象徴界の文脈連関が切断された「そのものそれ自体」のグロテスクさを呈するであろうことなど、レヴィナスの要所要所で頭の片隅にラカンがチラつくため、両者はきっと重大なところで遭遇するはずだが、今の私の知識と力量では、それを十分に言語化することができない。

現実界の深淵に掠ってしまったような「ある」の痕跡は、「そのものそれ自体」のマテリアル、ゴロンとした重量感を伴っている。それは、(シニフィエなきシニフィアンになぞらえるならば)「シニフィアンなきシニフィエ」とでもいえそうな、言語的な象徴理解を弾き返す、鉛の塊のようなものである。例えば、切断された腕、赤瀬川原平の「トマソン」、尾骶骨、スクラップになった車など。共通するのは「本来の用途を取り外された」ということだ。ただし、意味文脈を切られながらも、痕跡としての余韻を留めているため、存在的に両義的であり、そのことが、こちらにえも言われぬ不穏感を喚起する。

ラカンを手がかりにレヴィナスを論じた本書によれば、我々は、「無限(他者)を志向して欲望をかき立てられ続けている」のだという。「かつて一度も現在になったことのない過去」を追い続けることは、「対象a」をめぐって翻弄され続けるということでもあろう。

「翻弄され続ける」状態を、レヴィナスの言葉で言い表すとすれば、それは「前言撤回し続ける」ことにあたる。
個人的に、「前言撤回」は数あるレヴィナスの語彙の中でも、とりわけ生きることの致命的なつまづき、要は「露骨なダサさ」を意識させられる。
破格な解釈であることを承知で言うが、「無限セルフツッコミ」みたいな感じがするのである。
シニフィアンを「何?」、シニフィエを「これ」とすれば、両者がどうしようもなく、途方に暮れるほど、永久にズレてゆく。
すなわち、

「何?」→「これ」←< ちゃうねん >→「何?」→「これ」←< ちゃうねん >→「何?」→「これ」←< ちゃうねん >→「何?」→「これ」←< ちゃうねん >………
が無限に循環する。

これでは、「私」が粒子状に解けて、バラバラ空中霧散してていくのも無理ない。そもそも死ぬほど恥ずかしい。悔しい。みっともない。私は永遠に言いたいことが言えずに、Sとsの狭間で揉まれ、身悶えるしかないのである。
そのとき、私は何ができるのだろうか。たとえば「断言を避けること」はこの永劫回帰の痛みをかろうじて緩める必死の努力として機能するはずだ。軽率に「あなた」と言ってしまっては、それはもう私が心奪われた、鮮烈なあなたではなくなってしまう。そんなのなら、はじめから「あなた」なんて言わない方がいい。

存在に真摯であろうとすると、「前言撤回」は不可避の術となる。それは、レトリックの綾という、賢しらなものではなく、そうする必要性に駆られている。ワレモノを丁重に梱包するのは、飾りでやっているわけではない。

内田は、レヴィナスの語法の難解さの原因の一つをこの「前言撤回」にあると述べている。

それはいわば、「右手で差し出したものを左手で隠すような語法」である。
レヴィナスは重要なことを語るときつねに、何かを指し示し同時にそれを否定するという仕方で語る。だから、レヴィナスのもっとも重要な考想は、つねに「抹消符号をつけられた」(barre)状態で私たちに示される」(内田, p110 強調筆者)

「右手で差し出したものを左手で隠すような語法」とは言い得て妙だが、想像するだにだいぶダサい。しかも、マジシャンのような巧みに計算された動作ではなくて、ただただ意図と反することが起き続けてしまって、しどろもどろになっている、出した端からそれを回収するジタバタした動きを連想させる。
川本真琴の「月の缶」と言う曲に「口唇の外はいつも嘘になるから 気にしない」という歌詞があるが、〈語られたこと〉としての「あなた」はおよそ「嘘になる口唇の外」にあらわれた虚像にすぎない。だから、無限を真摯に欲しようとすると、「いかなる受動性よりも受動的な受動性」「かつて一度も現在になったことのない過去」などの、いうなれば言葉の過剰包装(一般に「誇張法」と言われる)は必然なのである。

「あなた」はこの過剰包装により、着膨れしている。そして重ねに重なる着膨れが、謎をさらに謎めかせているのである。

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