存在論的差異をやっていく・ダサくある

存在論的差異とは要は「生きるってめちゃくちゃダサい」というそのことを切実に苦しんでいる思想のような気がする。しかしそうであってこそ(皮肉なことに)、生き生きとした生というものがある。そういう難儀さを煎じた燃えカスのような主体。

木村敏「自己・あいだ・時間」における、ノエシス的自己とノエマ的自己の差異の議論も、その言わんとすることは「自己の現出において猛烈なダサさは逃れ難い」ということではないか。一般的にどうであるかはさておき、個人的な理解を優先すると、そのようになる。非常にパッショネイトな感じで、読み直してみてもよかった。やっぱり木村敏好き。

そこでここでは本書の第6章「時間と自己・差異と同一化」について、「ダサさ」を軸足におきつつ論を進めてみたい。

木村はフッサールにしたがって自己を自己生成作用としての「ノエシス的自己」目的位置に座する対象化された「ノエマ的自己」に分けて考える。前者は「こと的・述語的自己」、後者は「もの的・主語的自己」ともいわれる(少々脱線するが、レヴィナスであれば述語的自己は動詞的自己と言うであろう)。
ノエシス的自己は個別化以前の自己未然の不定形な力動の源であり、定まった形がいまだ与えられていない、「生命のスープ」である。木村は別の著作でこれを噴水のイメージで例えていた。確か、蛇口から噴出する直前の純粋無形のエネルギー時点での水を「ノエシス的」といい、限界まで緊張状態にあった水圧が吹き出された後の水の軌跡を「ノエマ的」と捉えることができるといっていた。
ノエシス的ないし作用的自己のはたらきとは「何?」の無尽蔵のエネルギーと考えることができる。「何?」のエネルギーが結実した現れが、「これ」に他ならない。「何?」=「これ」の公式が淀みなく達成されれば何もダサいことはない。スマートで無駄がなく、イカすのであるが、そううまいこといかないという点に存在論的差異の発端がある
無限定なるノエシス的自己の自己限定形として一時的に存在を有限なノエマ的自己に仮託する訳であるから、その間にはどうしても無限定と限定の差異、あぶれるものが生じる。その「あぶれ」が、寝グセやはみ出た下着、さむいギャグのような無邪気な過剰さをしたがえて居心地の悪い存在感を誇示してくる。
ノエシス的自己とノエマ的自己はその前提条件からして一致しないのは当然だ。無限を有限で汲み上げようとしても、そもそも尺度が違うのである。しかし、レヴィナスが「存在の彼方へ」において、「語ること」は「語られたこと」のうちに裏切られつつ現出すると述べているように、「私」なるものは容姿や、名前や、肩書きをまとった「私なるものの存在者」として現れるほか、存在様式の選択肢はないのである(だからこそ、「存在するとは別の仕方」は「存在すること」に食傷した存在者を魅惑する)。
木村は、ノエシス的自己の自己限定によってノエマ的な客体的自己が繰り返し析出され、それを介してノエシス的自己とノエマ的自己の差異が絶えず膨らんでいくことを「ノエシス的な差異化のはたらき」であり、「自己の自覚」と呼んでいる。

「自己とは、ノエシス的な差異化のいとなみが、それ自身との差異の相関者としてのノエマ的客体を産出し、逆にこのノエマ的客体を媒介としてそれ自身をノエシス的自己として自己限定するという、差異の動的構造のことである。」(木村, 2006, p248, 強調筆者)

言わずもがな、ノエシス的自己とノエマ的自己の差異の拡大は「何?」と「これ」のギャップの増幅なのであって、そこにはダサさがある。
だが、木村はベルクソンの持続概念を引用しつつ、このダサさ(=自己自身の自己限定による差異化の連続)をして根源的時間の発生を論じる。
「ノエシス的差異は自己自身を差異化してノエマ的客体を「自分自身に向けて対置」し、それによって差異は、関係のうちに導入され、「自分自身へと到来する」。この生成→到来の内的な動きが、時間をもたらす。
これを図示すればこのようになるだろうか(図1)。

図1

ノエシス的自己がノエマ的自己に自己限定する動線→に斜線を引いたのは、そこで生じる差異の存在を編入したためで、「自己の一致しなさ」を示している。その「一致しなさ」に賦活されたノエマ的自己が、「ふりだしに戻る」形でノエシス的自己を賦活するというループ構造こそ「差異の動的構造」である。

ここまで、「差異の動的構造」が文字通り生きられた時間を形作ることを確認した。しかしながら、持続としての差異は時間を生成するにとどまらない。
というのも木村はそこから、差異を自己意識の出現のうちに見出してゆく。
意識は差異の差異化の場所である。意識の差異化の作用によって、持続はそれ自身との内的差異へと展開され、自己意識として実現される」(同上, p253, 強調筆者)
これはつまり、図1で示したループ運動のうちに、自己意識が創発する(練り上がるようなイメージか)ということと読み取れる。
そう考えると、「私」という観念は、絶えず繰り返される差異の乱気流、ダサさの渦が描く一時の模様のようなものということではないか。それはなんというか、相当危ういように思える一方で、絶対的に生の運動を肯定しようとする強い基本姿勢を感じる。
自己を繋ぎ止めるものはその同一性ではなくて、差異こそが自己の根拠である。これこそがここで木村が言わんとしたことの要旨であるといえる。

木村は分裂病(現在の統合失調症)を自己の個別化の障碍と仮定している。
上述のように、自己の成立には「ノエシス的自己の自己限定と差異化」「ノエマ的自己の形成」「ノエマ的自己から触発されたノエシス的自己の新たな自己限定」という営みの反復モデルが背景にあるが、分裂病ではこれらのメカニズムがうまく機能していないらしい。そしてとりわけ、ノエシス的自己の自己限定が機能不全状態にあるものと仮定される。それでは一体どうなるか。

「患者はつねに、多かれ少なかれ不自然な形で、より確固としたノエマ的自己を「自己自身に向けて対置」し、「自己自身へと到来」することによって自己の個別化を確保しようとする努力を強いられる」(p256) 

これはどういうことか。端的に言えば「何?」に見合わない不自然でぎこちない「これ」を想定することによって、自己に回帰する力動を無理やり起動しようと試みる状態と考えることができるのではないか。またこれは、分裂病に限ったことではなく、思春期の心性において、ノエシス的自己の異常亢進に対してノエマ的自己が相対的に弱力化することによっても生じうる事態である。木村によれば、分裂病はこのような傾向が極端に顕著になったものにすぎないのだという。ここで注目すべきは、機能不全の要因がノエシス的自己の活動の急激な増大にあるということだ。
もっとも、「何?」のエネルギーが暴発する事態は我々でも比較的容易に想像しうる(図2)。心理的、身体的な急激な変化に直面し「何?」が主体を置いていくスピードで異常増殖を続ける。それによって、分相応な「これ」から身の程知らずな「これ!?」に位相がせりあがるイメージ。思春期の眩しい万能感と痛々しさはこれと関係しているだろう。

図2

思春期のやり場のない焦燥感や昂りに似た「気の走り」はいかにもアンテ・フェストゥム的であって、本来の等身大の自己に見合わない、思い上がった「これ」に結びつけがちになる。思春期ほどダサくてどうしようもない時期はないし、いわゆるジャンプの後ろのページに載っている筋トレ器具を思わず買ってしまうような精神と近からず遠からずの距離にある、ような気がする。


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