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ホオポノポノ日記115-②

まず、専門的なことはわからないのだけれど、私はずっと、頭の中のラベリング、設定を書き換えることで、出来事への意味付けとか、自分の反応の仕方を変えるということを少しづつ取り組んでいます。

昨日は、1時間ほどで、自分が過去にネガティブと認識してきたものが一気に、ポジティブへと変換されるような出来事があったので、もう1度、どのように脳内で整理整頓をし、その結果、これから先、しばらくは、何を自分のガイドラインとして採用していくのか、もう一度ここに書いて、しっかりと、形にして、自分のものとしたいと思います。


会話の初めの呼水について


まず、私は昨日、ある場所で、ある人と、会話をしました。脳内に、大小さまざまな大きさの砂や石が川の流れで運ばれてくるように、同時多発的に様々な思考が浮かび、何から話したらいいものやら、、とじっと黙ってました。でもそこで発した一言が呼水となって、スルスルと必要な会話の流れが流れていくことがその後に起きました。
きちんと会話の全体像を計画してから出なくても、自分の思っている以上ものものが出てくるのかもしれないのだから、千と千尋の神隠しの、オクサレ様にくっついた自転車のハンドルを引くと、堰を切ったように、余分なものが出てくるみたいに、まずは、一つ考えていることや気持ちをポンと出してみるのも、いいかもしれないと思いました。
(相手と場所を見て、ですが。オクサレ様も、お風呂の中という完璧なシチュエーションだから、余分なゴミを大放出して、川の神様に戻り、お綺麗になられたのですね。)

ポンと音を出す


オクサレ様の例えは、ゴミになってしまったけど、私が最初に発した音は、「好きな画家さんを見つけました」という言葉です。「何か、共感と、少し嫉妬を覚えました。この感じ。私が好きなやつ。天使、旅、恋人たち。海外と自由の感覚。知ってるやつ。羨ましい。」って

そして、そこに辿り着きたいのに、今いる場所が、何かとても遠いところに思えていることも話しました。

あと、この、なんか、素敵、どうしようって感覚、、これよく、「誰と味わったらいいのかな?!」って思っちゃう時あるんだけど、、自分と分かち合うっていうことをしてみるといいみたいです。じわ〜って、自分の世界に、まず、一人で染み渡らせてもいい。嬉しいね、ワクワクするね、何かいい感じがするね、こんなものに出会えたんだね、よく見つけられたねって、じわ〜って。
悲しい時もそう。きっとじわ〜って、自分と一緒に、分かち合ってみたいなって。

違和感の扱い方

それから、話題は違和感の扱い方の話へと映ります。

「ん?」と言う感覚と、無視されてる感じ、とか、So so、まあまあ、 みたいな、心に触れることなく現実が過ぎていってしまう時の、違和感の感覚の扱い方についても新しい見方を採用させていただくことになりました。

現実の中で、ささやかな違和感のサインが続いていました。ちょっと長くなるため、そこは割愛します。

で、それらのことを考えるとどうも、もやもやぐるぐるするので、ネガティブなものかと思っていたのですが、それは、未来の自分からの、もっと良いものがあるよ!という兆し、と見ることもできると知りました。

兆しについて


アルケミストという小説でも、兆し(sign)を読みながら、物語は進みますが、、最初は、香り、微風、そして、突風が吹き、最後は体に症状が出たりして、お知らせがやってくる、のだそうです。どんな風になっていったとしても、その風を送ってくれている、未来の、本来のありたい自分の方を見ていった時に、明るい感覚になります。
過去の脳内設定を、備忘録というか、似たようなシチュエーションで同じものを選択しない為に書いておこうかなと思います。「あーもう、こんなんじゃダメだなあ、ここも、ここも、ここも、違うものばっかりで、ダメ出しばっかりされてる気分だ」と自分の現実の中に対する「ん?」の感覚を敵対視していました。「ん?」がやってきても、それの答えが具体的に見つからないと不安になるし。
一方、新しい脳内設定では、どこかから、団扇でパタパタと未来の自分が気持ちよさそうに何か良い香りのするものでも仰いで、メッセージを送ってくれているのだとしたら、「ん?」の度に、「どうしたら?」って自分に聞くのも良いかもしれません。そして、そこには、必ず、もう未来の自分からの微細な種みたいなものは用意されていて、ただ、ただ、今選び直すことができるのだという安心感もあります。そして、そもそも「ん?」を拾えることが、私って本当はこんな風に生きていたいのよね、という存在そのものの音との対比から生まれる音だから、私を感じている瞬間でもあるという、、。ことらしい。。すごい!

( ちなみに、これ書いてたら、顔の凝りが気になってきたので、明日鍼灸の治療院での治療を予約をしてみることにしました。 )

愛か、愛以外か、ではなくて、全てが愛だった説

そして、話題は、音楽へと。。
私が最近聴いて、感動し、愛が降ってきたように感じたオーケストラのことですが、それについても、書き換えたことを記しておこうと思います。

オケの時に、愛に生きたい!と思ったのですが、あれは、ものすごく高波動ということになるそうです。
そして、愛の波動のすごいところは、怒りも悲しみも、憎しみも、絶望も、荒れ狂うような激情も、しとしと降り止まない冷たい雨のような憂鬱も、焦りも、膨大な時間も、痛みも、全て、全部を知っていて、包み込んでいるところみたいです。
許せないの思いがあってもいい。呵責の念があってもいい。
ちょっとややこしいのですが、いわゆる"愛"と言われる '幸せ', '喜び',だけがいいのではなくて、そのコントラストをなす全てが包括されていて、愛、みたいです。

その、愛に、辿り着きたいと想った時すごいことが起きるのだそうです

全ての、自分の脳内でバツをつけて、ジャッジし、罰を与えていたものが、実は、大切な音だった、全ての中に包まれたものの一つだった、ことに気がついていきます。溶けて、かけがえのないものとなって、壮大な時間と空間の中の一点だった、、ということになっていくそうで、、、

その雄大さ、広大さの前に、時間を超越していくようなもの、滋養に満ちたスープみたいなもの、素材一つ一つも宇宙だし、味わう人になっている時、私の世界が、バツではなくて、、バツもマルだったのだ、ということになるそうで、、自分の世界で、たくさんのバツをつけていた事柄や感情を、あの、哀愁と温かさを感じた音楽で溶かしていったらどうなるんだろうって。

毎瞬、毎秒、即興で移ろいゆく、形そのものが、宇宙の色と形であるっていうか、、。

( でこれを書いていると、また、色々と軽くなってくる感覚があって。 許せないっておもっていた人たちのことも許せる気持ちになるし、youtubeでゆるしの瞑想とか頑張って聴いて涙していた私のこともかわいいなって思えてくるし、、。 )

バツをマルにしなきゃ!とか、そういう話じゃなくて。。元から、全てが立体的に世界を織り成していて、それは煌びやかなものも、質素なものも、硬質なものも柔らかなものも、社会も自然も、全部含んでいる!ってことみたい。
全てを包む音を、描きたいんだって、思うとき、静かな、感動と、情熱が湧いてくる。

無理にペタペタしなくてもいいんだ、、サラサラしててもいいんだ、、愛してもいいんだねって。重くなくてもいいんだね。

いいんだよってことだったみたい。

まとめない


最後にいつもの締めくくり
ありがと〜
ごめんね〜
許してね〜
愛してるよ〜








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