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#今日の天気 この朝を、やさしく覚ましてくれる色

カーテンを開けると、薄紅色に端を染める雲が浮かんでいた。黒い影を落としたレモンの木のむこうを、一羽のカモメが明るいほうへと飛び去っていく。

朝が、ずいぶんと早くなった。南半球の冬が終わった証拠だ。太陽の力を蓄えるように、空が紫からピンクへ変わっていく。


「世界でいちばん優しい色ってなに?」と聞かれたら、迷わず「朝焼けの空」と答えると思う。よく晴れた日に、早起きをしたご褒美。燃えるような夕焼けとは違う、淡い緋色の世界。

夜にむかう夕暮れの空は、少しだけさみしい。まるで大好きな友だちとさよならをして、家路へと向かう気持ちみたいに。

***

こんなに人がいるのに、どうして私は一人なんだろう。17年前、駅の陸橋からまっすぐに伸びる道路とビルに阻まれて見えない夕陽を、どうしようもなく当てのない気持ちで見つめていた。

はじめて一人暮らしをした大学1年生。東京・三鷹の駅から歩いて5分。ビルやマンションが立ち並ぶ目抜き通り沿いに、その7階建ての学生寮はあった。

管理人付きで門限があっても、口うるさい母から逃れられるならと、喜んで飛び込んだ。親心を想像しようとしない自由がほしい18歳だったから。

念願の大学に入学した。そしてなにかに躓くように、少しずつ、私は心の調子を崩した。どんよりとした曇天がしくしくと泣き出す梅雨に、ワンルームに閉じこもりうっすらと世界を拒絶する。

今日こそは講義に出るぞと目を覚ましても、無機質な玄関は重く、身体はずっしりとベッドに沈んだ。胃の中にいれたものをトイレに吐き出すようなゲル状に溶けた夜。

いまだったら、燃え尽き症候群とか、なにか名前がつくのだろう。

とっくに遅刻している講義に出席するため駅へむかう。大通りの両側には大きく冷たい建物が並び、どこにもつながっていない己がただただ小さく思えた。

あのワンルームで腐りきった体にならなかったのは、はっきり言ってラッキーだったのだ。講義に出ない私を心配した男友達からの「大丈夫?」の一言。定期的に用事を作っては、外の世界に引っ張り出してくれたサークル。わずかにつながる糸のおかげで、脳みそが溶け出す夜が一日、一日と減った。

サイコロのように変わるメンタルを抱え、7階の部屋の窓から外をのぞくと夏がきていた。ビルが続く、その遠くの彼方に、ほんの少しだけ山が見える。その山が染まる夕焼けを見た日だけは、さみしくなかった。

そして冬の寒さが窓の外を覆うころ、ようやく人である時間のほうが多くなった。

***

あの穴に落っこちたような心の原因を、私は探していない。急速にとけていき、運よく戻ってきた。いまとなっては、あのビルに阻まれた、見えない空の夕焼けと切り取られた孤独というものを、遠い記憶の片隅に置いているだけだ。

玄関とキッチンが同化しているワンルームで暮らした4年間、一度たりとも朝焼けは目にしなかった。


空が続いているならば、いま私が目にする朝焼けの色は、7階の部屋で一人うずくまっていた少女を包んでいただろか。もう触れる必要のない距離から、想像する。さみしさしかない夕焼けと、暗く沈む夜を越えてやさしく街を照らす光を。

太陽がすっかり昇り切った空は夏の色をしていて、後ろから子どもの声が響く。肌を刺す陽の気配を感じながら、もう上着はいらないから日焼け止めを塗らなきゃね……と、私は忙しく頭を動かしていく。


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