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noteではじめてサポートをもらったときの、うれしさを残しておこうと思って

今日、人生ではじめてnoteでサポートをいただいた。

人生ではじめてだなんて、大げさに思うかもしれない。なにしろ、私がnoteを始めて1ヶ月も経っていない。けれど、自分の文章を「読んだ」ことにお金を払ってくれた人ははじめてなので、これを小躍りして喜ばないわけにはいかない。


ライターの末席を汚すものとして、「書く」ことでお金を頂いている。しかしながら、それは書く記事に対するお金。1本5,000円とか、書く前からお仕事の値段は決まっている。

記事の内容をクライアントの方が、「素晴らしいですね!」と褒めてくださることはある。けれど、それはあくまでも「読んだ」ことの「感想」だ。


社会に出てから十数年、たしかにお金を稼いできた。

新卒で入社した会社で、残業もいとわず働きまくって手にした初任給。会社のお給料と比較すれば、サポートのお金はお小遣いみたいなもの。それなのに、はじめて頂いたサポートにわーいと両手を挙げて飛び上がってしまうのはなぜだろう。

初任給は、会社から雇われてもらったお金だからだろうか? ライターとして、フリーランスで稼ぐお金の方が「主体的」だから嬉しいのかな? でも、それはやっぱりちょっと違う。

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飲食店をやっていたころ、お客さんが喜んでくれたときは嬉しかった。サポートを頂いた喜びは、それとちょっと似ている。

お客さんが食後、わざわざ戻ってきて「今までで食べた中で一番おいしかった!」と伝えてくれたとき。

ニュージーランドという国柄なのか、飲食店をやっていると「わざわざ戻ってきてお礼を言う」お客さんに出くわす。彼らは、地元の人であったりよその国からの観光客であったりする。なのでニュージーランド人が特段お礼を言うというわけではなく、この国の空気感がそうさせるのかもしれない。

「おいしかったよ!」と完食したカップを手に持ちながら言うお客さんに、「ありがとう」と笑顔で返す気持ちの温かさを思い出す。

飲食店で売るものは、当然ながら作る。事前に仕込みをして、お客さんが来るまでに手をかけて売る準備をする。お店の開店は11時からでも、仕込みのために7時に出社する。味にこだわって、時間と労力をかけて、赤字にならないように考えて。そして、おいしいよ!という自信と、お客さんは買ってくれるかなあという少しの不安の中で、毎日変わらず商売を続ける。

お客さんの「おいしかったよ!」は、これらの手間暇と労力に対する賞賛だと思う。考えてこだわった過程での、わたしの努力が認められたようでうれしくなる。

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文章を書くという行為は、飲食店ビジネスよりもなんだかもっと赤裸々だ。

noteは「わたしの思考」を書いているわけだから、頭の中の片隅を一部日本語の全世界にさらしているようなものである。

そうでなくても、言葉というのは思考を泳ぐためのフォームみたいなもので、なにを書いても隠しようのない「その人」がじんわりと感じられる。

大げさかもしれないけど。でも、文章にサポートを頂くということは、なんだか「わたし」を少し肯定してもらえたような気がする。だから、こんなにもうれしい。


文章を書く仕事をするなかで、心のより所みたいにしている思い出がある。それは、中学校の卒業文集。中学3年生のときに、全員書くアレ。「将来なりたいもの」とか「部活の思い出」とかを綴るヤツ。

わたしは、多くの同級生がテーマに選んだように「友達」について書いた。中学1年生で、仲のよいと思っていた友達から陰口を言われたこと。悲しかったこと。でも、変わらずに仲良くしてくれる別の友達がいたこと。大好きな友達のことを、卒業してもずっと忘れないと思ったこと。中学生の多感な時期の悩みを、稚拙な言葉だったけど、原稿用紙1枚に嘘は交えず書いた。

その文章を、幼稚園からの幼なじみのが「文集の中で一番好き」と言ってくれた。卒業してから何年もたったあとで。まったく予期せぬ何気ない会話で。

文章のお仕事をしようと決めたとき、彼女の言葉が私の心の中にあった。インターネットの海で、だれかひとりでも「スキ」と言ってくれる人がいたら。わたしは書き続けられるのかもしれない。


今日のサポートを頂いた出来事は、この心のより所に近しい場所にしまっておこうと思う。だって、とっても尊敬する人から応援してもらったから。誰からなんてのは、ナイショだ。

わたしがおばあちゃんになっても、ずっと文章を書き続けていたら。もし小さな孫がいたら、その子にはちょっと教えてあげる気になるかもしれない。「むかし、とってもうれしいことがあって。今でも覚えてるんだけどね…」なんて。


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