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母が亡くなって3年目。私はやっと1つ1つ後悔してその悲しみを受け入れるんだと思う。①

2018年3月23日の夕方、母が77歳でこの世を去った。

亡くなったその日、私は泣かなかった。というか泣けなかった。その時のわたしには悲しむ余裕がなかった。それでも大丈夫だったはずなのにここ半年くらい1日も母のことを考えない日がない。だから整理するためにも書いてみることにした。

母はとにかく破天荒な人だった。ワインが飲みたい。でもオープナーがない。で、出刃包丁でボトルを割って布でろ過して飲むとか、思春期と小学生の子供に「お母さんパチンコで負けちゃったからあと一週間500円しかないよ」と財布を見せたり。カナダはアメリカだと言い張ってムキになったり。一般的な常識とは大きくかけ離れてはいたが、とにかく明るくて愉快な人だった。


亡くなる2年半くらい前、母は持病であったリウマチの痛みを軽減させるため踝の関節を人口関節にする手術を受けた。心臓から遠い場所だから血の巡りが悪かった。とか年齢的に、とかいろんな要因はあるんだけどとにかくその手術が原因で『敗血症』になり、何度も洗浄のために手術をしてもよくならず、右足を切断した。

それまでも、肘や膝を人口関節にする手術を受け良くなってきた経緯があったので、本人はもちろんお医者さんもそんなことになるとは微塵も思わず。私に至ってはそもそも、敗血症になるまで入院していることすら知らなかった。同じ札幌市内に住んでいたというのに。

私は4人兄弟の末っ子。とはいえ上の兄、姉はそもそも腹違いでほとんど一緒に暮らした記憶がない。父は30年以上前から別居していて数回しかあったことがなかったし、この時すでに亡くなっていたし、頼りのはずの一番年齢の近い兄はもう随分前に札幌を離れ愛知で家庭を持っていた。

そんな感じだったので当然入院中の先生とのお話や身の回りの買い物、金銭の管理などは当然のように私の役割になった。

右足の切断も先生と相談して、私が1人で決めた。少し大げさに言うとその時に多分私はこれから母が亡くなるまでの一切を私が引き受ける。と覚悟を決めたんだと思う。

余談だが、足を切断する手術の朝、出勤前に母に会いに行った時の母の言葉が凄すぎた。「もう70年も使ったんだから~、十分だ。」と笑っていた。覚悟の決め方が違う。受け入れる力がすごい。全然かなわない。母をかっこいいと思ったのはその時が初めてだった。

とはいえ、そのころの私は成長期のベンチャー企業で朝7時から終電までほとんどまともな休みもなく働いていてとてつもなく忙しく、その後の介護は病院に任せっきり。

週に1回、母の好きな甘いものやコーラを買って病院へ行き、先生に呼ばれたらまた行く。ただ、当然いつまでも入院しているわけにも行かず、半年ほど経過した頃に「どうしましょうか?退院。」という話になった。

母に「一緒に暮らせないか?」と言われたのはその時が2度目。1度目は70歳になったばかりの頃。友達も多く忙しくしていたから元気に見えていたけど、きっと心細かったんだと思う。でも私は「実家からだと職場も遠いし、、、」と断った。

そして、その時も私は「一緒に住んでも家にいないし、出張も多いから何もしてあげられない」と断った。その時の母の悲しいような、さみしいような顔は今でも覚えている。

あの時は、そう選択をした。事実はそれだけ。でも少し後悔していることの一つ。


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