一度は乗りたい世界の鉄道(オリエント急行 ベネチア~パリ)

プロローグ

 わが旅の原点はどこにあったんだろうと、しばし考えることがある。遠い記憶を辿れば、あれは小学校に上がった頃だった。学校から帰るや否や、ランドセルを放り投げて駅まで自転車をこいだ。毎日同じ時刻にやってくる機関車を見るためだ。小学校低学年時代の絵の大半は機関車の絵だった。また、花卉栽培が盛んだった土地柄のため、夕方になると公民館に籠に入った花が並べられ、荷札が付けられる。その荷札に印刷された「東京」「大阪」「名古屋」時に「横浜」も混じり、子供ながらに未知な都会に心躍らされ、自分が花になったような気持ちで、これから旅に出る錯覚を覚えたことを思い出す。この頃が自分の旅への原点になり、原体験になった。中でも、機関車への憧れは強く、結果として世界の様々な列車に乗ることができた。今年の最後は標記のテーマでお贈りしたい。


▼第10位 オリエント急行(ベニス・アールベルグ)・・・ノスタルジック急行で何も起こらなかったが、確かな思い出ができた

 1988年6月某日、ベネツィア、サンタルチア駅のオリエント急行専用ラウンジにいた。午前11時の出発に合せて、そのおよそ40分前にラウンジの前に赤い絨毯が敷かれ、専用のカウンターが設けられた。チェックインをして早速指定の車両に乗り込む。やがて、トランクがそれぞれの部屋に持ち込まれると定刻に滑り出した。サンタルチア駅を出るとすぐに映画「旅情」のラストシーンで有名なイタリア本土と繋がっているリベルタ橋を渡る。進路を西にとって、ヴェローナから北上する。(今回のルートはいわゆる、ベニス・シンプロンのコースではなく、そのメインコースを補完するアールベルグコース)丁度このあたりで昼食になる。アディジェ川沿いの景色を堪能しながらカジュアルな装いでダイニングカーで昼食を取った。緩やかな昇り勾配で徐々に標高を上げて、オーストリア国境に近くづくと、上品なクッキーとコーヒー、紅茶が運ばれる。やがて、狭隘な谷に入り、山が目の前に迫ったサンクト・アントンに止まった。サンクト・アントンは「スキーの聖地」という代名詞があるほど、スキーヤーにとっては垂涎の地だ。ここで、給水と食料を積み込むのか、約30分ほど停車。列車を降りて、駅や、列車を背景に記念写真を撮った。いよいよアールベルグの11kmのトンネルに入る。ここで、フォーマルに着替えてダイニングに。食事を取る前にバーカーで食前酒と洒落る。夕食は前菜からコーヒー・紅茶まで全6品のフランス料理のフルコースで列車の食事とは思えないワンダフルなものだった。丁度トンネルを通過中に食事を取るせいで気が散らないのが良かった。食事が終わるとようやく日の長いヨーロッパに夜の帳が下りる。再びピアノが心地良く響くバーカーに場所を移し、食後酒と会話を楽しむ・・・適度な酒が熟睡を促し、翌朝は朝食が運ばれてきた時のノックがモーニングコールだった。贅沢で至福の時が過ぎるのはすこぶる早く、食事はいらないから「もう一泊」してロンドンまで行きたかった。

オリエント急行の歴史は1883年と言うから、日本では明治維新が終わって、まだ、憲法ができる前。国としての整備を進めている時代だ。最初のコースはストラスブールからイスタンブール(当時はコンスタンチノープル)までだ。オリエント急行を最も有名にしたのは言うまでもないが、1934年にアガサ・クリスティーのサスペンス「オリエント急行殺人事件」だ。映画は1975年とかなり遅いが、私はむしろ、007シリーズの傑作「ロシアより愛をこめて」で使われたシーンが最も印象に残っている。仕事とは言え、時にジェームズ・ボンド、時にポアロになれる気分は満更でもなかった。

オリエント急行は現在、バンコク・シンガポール間をはじめ様々な国で走っている。詳しくはオリエント急行のホームページにアクセスして欲しいが、因みにパリからイスタンブール間を走る5泊6日のノスタルジック・オリエント急行は2007年度は8月31日にパリを出発した。年に一度ということもあるが、人気が高く、既にかなりの予約が入っているようだ。列車好きはもとより、ノスタルジックな大人の旅をしたい人にはお薦めだ。

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オリエント急行のエンブレム・・・写真公式サイトより

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(客室・・・2名部屋。夜は左の椅子の部分が2段ベッドに替わる。洗面は右手にあり、下の写真・・・いずれも公式サイトより)

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