2024/04/27

もっと普通に日記を書けるようになりたい。と思う。なんか、変なことばっかり書いてた気がする。一旦もとに戻る。しかし寂しい。そう。寂しい、とか書きたい。

今日、ラジオトークで、ライブ配信をした。そしたら、コメントくれる人とかいて、とても嬉しかった。わたしは、ラジオでも、ずっと同じ話ばっかりしている気がする。

なんかほんと、最近普通の日記を普通に書くみたいなことを全然してなかった気がする。生活に戻る。生活をやっていくぞ。なんか、最近の自分というのは、どこかユートピア的な世界を建築して、そこで永久に穏やかに過ごすぞ、的になっていた。それだと、ちょっとしたことが辛くなってしまう感がある。ユートピア前提で暮らすと、歯茎から血がでたとか、その程度の「ゆれ」で、地盤がぐらぐらとしてしまう感じがある。生活をやるぞ。ゆれながらやるぞ。

日記を書く、みたいなことを中心に、というか、時々、よし日記を書くぞ、となる時があって、そういう時がなにかの転換点になっていることが多い気がする。

さびしい。さびしさのマスコットキャラクター、サム。中学生の頃、暑さのマスコットキャラクター、「アチチクルセイド」と、寒さのマスコットキャラクター、「サムシングサムス」というのを、独自につくっていた。さみしい。かまってほしい。もう十分かまってもらっているのにね。わたしのことだけを考えていて、と言っている人の気持ち、わかる。自分で言っていて、かなりきつい、ということはわかっている。

良いタイトルやね

最近、なんかいろいろ揺らいでいる。自分への気持ち悪さみたいなのが多分強い。けれど、なにかそこが転換点に生ってくれるような気がする。しらんけど。思い出さないで良い記憶を思い出そうとしている気がして心配。(「心配」と打ち込もうとして、「新パオ」にタイポして書き直した。新パオって、新入りの象みたいでかわいい。ゾウ界隈でそういう言葉つかわれてないかな。知り合いのゾウに聞いてみよう。)

いろんなことがぬちゃぬちゃしている。ある一定の状態、みたいなものを、意識的にめざしていくのは難しいと思う。なにかの一歩手前のような気がして、でも、その一歩を踏み出して、なにかの状態になれたとして、そのあとどう生きてゆけばいいのか。階段を登っていくみたいに人生が進んでいって、ある時ゴールをむかえて「あがり」になる、みたいなことにリアリティを感じられない。自分は大したものが書けない。強度のある事実としてそんなことがわかってきた気がする。去年ハマってよく行っていたインドカレー屋に、こないだ行ってきた。めしくいながら、YouTubeにあがっている人狼ゲームのプレイ動画を見ていた。こんなんでええんやろか。不安です。なんかね。なんか、自分を、ある向きへ、方向付けていくやり方がわかってきた気がする(前に行っていたことと矛盾しますが)。けれどそれは、ある種の自己洗脳だと心得ているし、それは例えば、ヨガに心身の状態を整える機能が確かにあったとして、しかし、ヨガだけをやっているわけにはいかない、みたいなことと似ている気がする。いまのおれは、ヨガだけをやっていこう、になっている。そうじゃないじゃん、と思うのだけど、なんか、そっちへ行こうとしている。そして最近の自分が、なんか嫌らしいというかそんな感じがしていやだ。というのは、さっき言った「あがり」の状態になろうとしている気がする。そしてそれは、案外むずかしいことじゃないんじゃないかと思うが、その「あがり」のあとの世界で待っているのは、ある種の、というより、途方もないメランコリーとか、空無感というか、そんなんじゃないだろうか。

大学生の頃に、その時はOCDがあまりにひどかったもんだから、それで見つけたのがマインドフルネスで、そしてそれはある程度聞いたのだけど、さっきいった「マインドフルネスだけをするひと」になろうとしていた。それはつまりユートピア的な場所の模索で、そしてそれはある程度まで完成したあとで、その反動から、リバウンドみたいに、とても強い空無感や虚無感に襲われたのを覚えている。OCD的な不安の只中にいて、求めるのは完全な安心、安心だけが満たす世界、のようなもので、というより、OCDがまなざしているもの自体が、そのような世界なのだと思う(そしてそういう意味で、多くの人、というより、ほとんど全員はOCDなのじゃないかと思う)。

そして今こうして書いているのも、そのような安心だけが満たす世界のようなものをつくろうとする何かしらの反復的な強迫行為のようなもので、そのような動機は果たして良いんだろうかと疑問を持ちながら。わからん。でも楽しければ、楽しいほうがいいはずだ。書き続ける。書き続けている間なにがしか安心だ。そのようなことを永遠に続けていくことをイメージする。チューリングマシンが読み込む無限遠のテープみたいなものを想像する。チューリングマシンは苦悩しない。わからない。完全競争社会みたいなもの。理念上の、理想上のせかいみたいなもの。その理想的な場というのは、短期間であればたしかに存在できる。けどそれはとても空疎なものなのだ。わかる。わからん気がする。治るとか治らないとかじゃない。そういうのじゃなくてええやん、といったのは自分なのに、たしかにそうと思いながらそうじゃない方向へ行こうとしている。でも、心配心配、というてる人をみているほうが安心する。わたしは。なんかしらんけど。なんか、例えば、「飲み会の気まずさ」みたいなものを避けようとしてユートピアを建築しようとしている気がする。そんなもんなのかもしれない。ある程度の心配は看過するべきだ。それをゆるせないのが身体やろうか。だけどそれは本当に身体が考えていることやろうか。からだというより、からだをつかっているこのわたし、みたいなのが考えている。くだらないことしか書けない。みたく考えているこの自分。いい。普通のことを書くべきや。普通に。生活をする。生活をしようとする。食器のカチャカチャいう音がする。それに体が反応して、ビクッとなる。そういう音がどうしても苦手だ。でも繰り返しになるが、例えばOCDがまなざしているものは、そのような〈ビクッ〉がない世界だ。完全に、均された、平静で凪のような場所。チューリングマシンがただ永遠に演算を行っている場所。抗おうとすること。波が来た時に、がんばってそれを相殺しようとしているひとがいる。その「頑張り」のことを褒めるべきじゃないか。ただ盲目に安心だけを求めている。もう自分が何で不安なのかもよくわからない。なにか茫漠としたものだ。

広島からこちらへ帰ってきた時に、それは3-6月くらいにかけてのことだと思うが、その期間、とにかく、死ぬのが怖くて怖くて仕方なくなった。つまり根っこにあるのはそれなのかもしれない。同じ年にとった美術史の授業で、メメントモリのことを習った。いい、このくらいの適当さで。死の舞踏という静物画を鑑賞した。死んだら何も残らない、どれだけ学んでも、死んだら灰になる。あるいは、いまも灰になり続けている。数秒前に発火した自分の意識がどこへ行ったのかわからない。そのような強迫的な確認行為の延長線上に自分のまなざす不安がある気がする。自分は今もずっといなくなり続けている。本を書くためにブログを書くなんて違う。違うこともない。現在進行系で灰になり続けている。

灰になっている。ハイになっている。今日だけでどれだけ書くつもりなんだろう。でもどこかメランコリックなハイネスだとおもう。ハイネス。ラウンドワンから出たら雨が降っていた、みたいな。何それ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?