2024/05/13 日記

雨が苦手、というより、薄暗いところが苦手なのかもしれない。島のばあちゃん家の仏間は、居間から完全に切り離されてひとつの部屋になっていて、ガラスのふすまを引くと、いつも真っ暗な、窓のない、線香の匂いがして、夏になるとサウナみたいに蒸し蒸しとして熱い仏間があらわれるのだけど、そこにひとつ大きなダンボールを置いて、その中に入り、完全な真っ暗になるのを怖がりながらもよろこんだ記憶がある。

明かりにめっぽう弱いのかもしれない。一度、「人生の最初の記憶」を改ざんしたことがある。本当は、僕がハイハイしていて、母親が向こうから笑顔で手を振っている、という記憶というか映像のようなものが、最初の記憶のはずなのだけど、ある時、自分は、真っ暗な空間にいて、そらから幾筋か太い光の柱が降ってきて、自分の周りを取り囲み、それは神のような存在で、わたしになにか啓示的な、お告げのようなものを言い残し、めを覚ますとこの世に生を受けていた、というストーリーで、そういうことがあったんだ、という確かな実感を覚えたのが何歳だったか忘れたけれど、ある程度物心がついたあと、例えば小学校の低学年とか、中学年の頃じゃなかったか、と思う。

暗い気持ちが、部屋の照明を明るくした、くらいのことで落ち着く時がある。眠るとき、部屋を暗くしてから眠る、というようなことがめっぽう苦手だと思う。暗くするということは、眠るモードをつくる、ということであり、そのことで、ねむるぞ、と意識するようになってしまい、うまく自然に寝付けなくなる。それに、夜というのはもっぱらネガティブなりやすい時間帯だけど、部屋の照明が落ちてしまえばそれがより加速されるような感じになって、最近は特に、ほとんど、部屋を明るくしたまま寝落ちして、明るい部屋のまま起き、だから一日中、ずっと明るい場所で過ごしているんじゃないかなと思う。

専門学生の頃、とにかく所在なく過ごした2年間だったけど時々きもちの落ち着くような夜もあって、そういう時は散歩して、川辺のベンチに座った。広島市内はなんという名前か知らないが、川なのか流れてきた海なのかもしらないが、とにかく、河川のようなものが、市内中心から少しそれると通っていて、と適当なことをいうけれど地理には詳しくない。広島県立図書館、という名前だったかとても大きな建物、しかし図書館がはいっているのはそのうちの一階部分の隅の一スペースだけだったが、そこへ行って、涼みに行ったりした。ちかくに川が流れていて、そこにベンチがあり、こちら岸と向こう岸。どちらでも構わない、向こうへいけばステーキガストがある。むこうへわたる橋がある。そこを、花束とプレゼントをもったサラリーマンらしき男性が、わたって歩いてくるのを見たことがある。年度末だった。3月の終わりごろ、友人に誘われてなぜか行くことになった、内装の壁が一面水色の、時間制のメイドカフェに行った帰りの日だった。24時を回っていたと思う。解散して、どこへいけばいいのかわからなくなっていた。というのは、いま寮に帰れば、間違いなく門限破りがバレると思った。だから、ネカフェに泊まろうとして、道に迷った。そのうちその橋を通った。ネカフェだと思って、入ったところが、ヤンキーのたまり場になっている、ビリヤード場みたいなところだった。カラオケも併設されていた。とても広い場所だった。もしかしたら宿泊スペースもあったのかもしれない。

大学四年の頃、色々ときついときで、すこしおかしくなっていたとおもうが、ある夜に、突然、空港へ行きたくなった。飛行機を見なくちゃいけない、と思った。いますぐ見に行きたい。でもその頃は車を持っていなかった。夜の外出も、親に許されていなかった。そういうのもあったのかもしれないが、とにかく、この学生時代を、孤独と精神疾患で終わらせてたまるか、という気持ちがあって、夜ご飯にスーパーの回鍋肉丼にラー油をたくさんかけて食べ、お腹いっぱいになり、中学生の頃に使っていた、通学用のアルベルトに乗った。家を出たのは、夜の9時頃だった。親にバレはしないかとヒヤヒヤしていた。案外気づかれなかった。不思議だ。そして最寄りの鈍行列車の発着駅につき、10時の便を待った。それが終便だった。すこしでも楽になればいいと思って、電車に乗り込めば、夜の何も見えない、車内には僕を含め数人もいない、ひとりお遍路さんがいた気がした、気のせいかもしれない、ともかく松山駅まで向かった。整理券をてにとった。だけどずっと痛かった。

松山駅へ着いたら、駅の照明は半分消えていた。ロータリーにもタクシーが停まっていなくて、バスも終便を過ぎていた。歩いて飛行場へいくことになった。もともとそのつもりだった。雑踏を歩きたかった。飲み屋にでもいけばよかったのだと思うが、とにかく躍起になって空港まで歩いた。何キロも真っ暗な道を歩いた。とにかく寂しい道のりだった。カラスの羽音に驚いたりした。すごく怖かった。幽霊や怖い人がたっていて、異界に連れて行かれるような気がした。人恋しかった。2時間か3時間か、とにかく長いこと歩いた。どうしてそんなに空港まで生きたいのかわからなかった。買ったばかりのスニーカーは水色のニューバランスだった。本当はもっとおしゃれしたかった。真っ暗な道だった。途中、斎場や、セブンイレブンをみつけた。高架か歩道橋の下にあるセブンだ。すごく懐かしい感じがした。自分の前世は、何年頃を生きたひとだろうと思う。99年に生まれた。輪廻転生は、死んだあとすぐに生まれ変わるシステムであるとして、わたしは99年に死んだ誰かの生まれ変わりであるということになる。何歳くらいで死んだんだろう。あるいは、わたしはまだ人生一周目だという気もする。けど、なぜか感じる懐かしさ、それは例えば、自分の中にある風景としては、定期巡航フェリーの船内の、かたいカーペット敷の雑魚寝スペースや、そこに置いてあるごわごわの毛布の手触りや、進む船のまわり、夜の海のすこしさむい秋口の大気で、あるいは、植物園のようなガラス温室に入ってあるつる性の植物と、そのガラスの内側についた水滴のイメージなどがある。おなかの底からさみしいような気がする。ここ最近ずっとそうだ。さみしいさみしいとは言ってもここまでさみしいのは始めてな気がする。だけど、普通に生活は送れている。ずっと泣きそうな気持ちになっている。99年に死んだわたしの前世の人間の見た風景が、あの歩道橋のしたの、オレンジ色の回転灯のついた小さなセブンイレブンのような何かを、それに似た風景をみたのかもしれない。70年くらい生きたとして、1920-30年代頃に生まれたんだろうか。

みどり色のハンガー。チェーン部分がついた。ゆれるとかしゃかしゃと音がなる。光があたって、影が重なってうつって、それが揺れる。風呂栓やそれにつながった金属の鎖は、湯が貯められれている間ずっと水に浸かっているから窒息して可愛そうだと小さな頃思っていた。仏間の暗がりと蒸し暑さ。島のばあちゃん家の軒先にはアロエが生えていて、葉をちぎって、それから半分に割れば中からどろどろとした液体が出てくるが、それを傷口に塗り込めば薬になると言われて、擦りむいた膝小僧のきずに塗られるのだけどおそろしくてないた。得体のしれない植物のことが昔から怖い。地元にあるサウナメインの銭湯があって、それは今どき珍しく男性専用のサウナで、受付にはおかみがいて、入口に入って右手には、間仕切りというか、壁に隠れただけの脱衣スペースが有り、そこで服を脱ぎ、ほとんどはだかのまま2階にあるにある浴場とサウナのフロアにあがっていく。受付正面の一階部分(というか雑居ビルでいえば二階部分)にリクライニングチェアがあって、テレビがあって、カウンターのそばには食事をする机がある。はだかというか、半裸のまま、腰にタオルだけまいて過ごしている人もいる。みんな慣れているんだと思う。主人もきっと慣れている。話を戻せば、二階部分の浴場へ入れば、大きな浴槽が2つ並び、ひとつは熱めのお湯で、もうひとつは水風呂になっている。そして、そのふたつの浴槽の中間に、なにかの植物が吊るされている。そういった植物のことが、不気味で怖いと感じてしまう。さっき言った、ガラス温室の植物のイメージにちかい。植物はどこか神秘的な感じがあって、日常にあるものというよりもっと、向こうの世界にあるものといった気がする。それが、生活空間の中にあると、すこしこわいと思ってしまう。花も野菜も観葉植物も木もすきなのだけど。どこか不気味さを感じてしまう。サウナ室にはテレビが置いてある。あるとき訪ねたら、NHKがかかっていて、むかしのドキュメンタリーの再放送をやっていた。そのドキュメンタリーのシリーズをなんというのか知らないけれど、よくみるやつだ。なぜかよく出先で見ることが多い。祖父の通院で病院へ行ったときにもかかっていて、それは宮大工の仕事を追った回だった。病院でかかっているドキュメンタリーはなぜか見てしまう。あるときには海洋系の番組がかかっていた。なんてやつだったか忘れた。よく忘れる。きょうも、ラジオでかかっていたいい曲の曲名を忘れた。そしてそのサウナ室でやっていた番組というのは、なにか、神楽みたいな、伝統芸能の人形劇のドキュメンタリーだった。

一階へ降りると、また壁で区切られたところに洗面台があり、その横には水槽が置いてあった。金魚が数匹入っていた。むかし家でも金魚を飼っていた。夏祭りでとってきた金魚だ。そのために大きな水槽を買った。大きく育った。でも可哀想だと思ってしまった。自分で取ってきたくせに。せまい水槽の中で、何時間も何日もずっとそこにいなければならないというのが、本当に恐ろしかった。転覆病にかかったある一匹は、腹の横に大きな腫瘍のような黒い塊ができた。


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