日記: 4/26-28

2024年4月26日

Obsidianで書こう。どうせ自分のスタイル。どうせどうせと思う。徳利みたいな単語を知りたい。喃語で喋りたいと思う。まだからだの中に喃語が残り蠢いている気がする。「徳利(とっくり)」はそのような喃語的響きに似ている気がする。全部から浮きたって一人でいる気がする。ハイエースに乗って降ってくる雹を凌ぐ動画を前に見た。とんでもなくデカイ雹。ダメだ。とんでもなくデカい雹だった。何が。去年の10月中頃に雹がここらでも降った。そして、家の車庫のトタンの屋根の一部が雹で壊されて、ところどころ穴があいた。そうなってから、光が差し込むと、穴ごしに、まばらに差し込んだ光が。だめだ。おれはどうしてもかっこつける、から意地が悪いと思う。穴から光が差し込んで、細かい光がゆれるのをみる。人は単純でないのにそう思ってしまう自分はとても単純だと思う。しいたけ占いもそう言ってた。おうし座は、表面的な複雑さをかいくぐった先に、内部の奥の方を見てみると、案外とても単純で5歳児みたいだってよくそう言ってる。しいたけはおれのことなんでも知ってるからそうやって教えてくれる。俺は自分で自分のことなんにもわかんない気がする。そう書いていてなぜが頭の中に思い浮かぶのは小さい頃よく行っていた地元のフジグランの二階にあるフードコートの風景で、そこにはミスタードーナツがあった。他にもいろいろお店があった、のに、ほとんどつぶれてしまった。そうあそこはもうほとんどなんにもない。テナントがみんなどこかへ行ってしまった。ショッピングモールに関わらず、ずっとそこにあるものや、あるいは、変わらずそこにあったのに消えてなくなってしまったもの、どちらもとても寂しい。自分はなんにも、どうせ、と言ってる自分のその響きが喃語的である。喃語のように口のただの動きただの発音、でもきっとただの動き・音ではない何か。砂糖のまぶされたドーナツ。お腹を好かせただれかが、たまらないでむしゃむしゃと何かをむさぼっている姿をみているときのえもいえない感情(だから大食いの動画は人気なんだろうか)そんなことばかり考えて、そんなことばかり考えてなんて言って、そしたら指を動かしているこの自分が意識されて、鼻の影がみえる。

2024年4月27日

どうせどうせなんて言ってどうせなんてなんの意味もなく、ダメだとかアホやとか、最近よくおなかすいて、食べて食べてもおなかすいて自分の品の無さ何から感じるのか知らない、なんにも、なんか、なんかなんかと言い、それがやはり喃語的なリズムを伴ってただ言う気持ちよさに任せてマグマみたいな、そう、マグマみたいにたとえばナルトが九尾の尾を生やす時の、1-3本位の尾を生やした時の、ふつふつと煮え立つような赤い透明の泡立ちと似ている気がする。小さい頃はあの、九尾モードの姿にあこがれた。雹が降って空いたトタンの屋根の穴から差し込む光が、いくつかの点になって土壁にあたり、まばらな点々の模様を描いて揺れるのを見ている。雨が降るとつつぬけになって車が濡れて寒がって寒がる時目を少し細める。エッフェル塔に恋をしている人の気持ちしか分からないのかもしれない。自分だってそのような、ある種の記号ばかりをもてはやしなぞっている気がする。もしエッフェル塔に自我があってしゃべりかけて来た時、エッフェル塔に愛や憎しみがあってこちらにあれこれの感情のはたらきを見せる時百年の恋も覚めるのだろうか。エッフェル塔と一緒にでかけて、電車に乗る時は、一緒にご飯を食べる時は。だめだ、自分にはそんな経験ないから分からない。いつかデートをしてみたい。そんな日はこないし来なくてもいい。来る時は来るのかもしれない。ただ待っている。自分から仕事を探したり、誰かと付き合ったり、難しい、からエッフェル塔に恋をしたりする、けどエッフェル塔との具体的な付き合いの仕方なんて思い浮かびもしない。空想の中にいる。でもそれが不健全とも思わない。健全とも思わない。ただ誰かと一緒にいてこのお菓子美味しいねとかおしゃべりしたいけど、そのようなコミュニケーションはリアルなものなのかもわからない。自分が今どこにいて何をしようとしているのかも分からない。ただ待ってじっと待っている。じっと待っているあいだ。ゴッホはたとえば病院の窓から(知らない、詳しいことはしらないけど)、ありえないくらい綺麗な夜の空をみて描いた。待つことがそうさせたのか。待つしかないのか。待つしかない。社会に出るのが怖いから何もしないで待つしかない。違うそんなことない。明日にでも何か出来るはだ。なんにも。遅いことは無い。そんなことない。もう遅い。もう遅いのでエッフェル塔を眺めるしかない。もう何をするにしても遅い。知らない。知っていたらなにか出来るだろうか。知らない。拗ねた態度だ。尻から1本マグマのしっぽが生えてきておなかをさする

2024年4月28日

ああして、こうして、どうにもならないから待っている。待っているただ、どこへも行けないから待ってただじっと待っている。待っていたら夜が来てまた朝が来てくれる。それの繰り返しで、繰り返しの中になにか安らぎや気晴らしを求めて、自分はそうやって、でも体は動いている。けどおそいくるなにかの、衝動的な痛みみたいなものをしっている。<ビクッ>がない場所をさがして、探しても仕方がない。けど、そうけど、けど何を言おうとしたのか。けど、けどそう例えば。星とかを見たいのか。じぶんにあんなきれいな星が見えるのか。見るしかないから見たのだ。自分もそのようなある種の必然性にともなって星を見た。飛行機が流れ飛んでいくのを見た。それだけの事が嬉しい。自分の外側でなにか社会が動いているのがうれしい。このままここで待ち続けたらなにもかも台無しになりそうだ。どうして就活ができないのか分からない。やらないといけない。分からない。やらなくてはいけない。やらないと先に進めない。はやく、家を出ないといけない。じゃないとほんとにこのままじゃなにもかも終わってしまう気がする。何が。なにもかも。ぜんぶ。けど分からない。自分のそのような何かへの憧憬はエッフェル塔への恋心と何が違う。どうせいじめられる。みんないじめられてきているのだ。そうしてそれは通過儀礼のようなものとして、腹の中にわだかまりをのこして、悲しみながら、いやそんな、でも悲しいとか言いながら。自分は泣いたり、あまり泣けない。もうすこしもう少しと思うのだけど。知らん。どうやっても。ただお腹が空いているだけだ。ばかみたいにお腹が。そうしたら、わからない。いぬみたいに。おれなんておれなんてと喃語のようなただくちのうごかしかたとしてそうして、どうせ。どうせどうせと言って、なんにもやらないが、ただ待って、待って待っている自分が何処か遠いとこ行って、知らん、知らんまま死ぬのかもしれないが。ただ口の動きだけ。待って待っている人のしゃべり方だ。窓の外に見える星の動きも知らない。けどおれみたいにただ待ってしらんまま社会が動いて知らん人は知らん人と付き合って結婚して、自分はただなにかぼうっとしてそれは幸せなことだと思って、後ろめたい罪悪感だ自分の周りにいる人は俺を憎んでるなんて被害妄想をしてでもそれがなにか当たっているような気もして時々誰かのことを考えて知らない間に寂しくなるから泣きそうになるからただまってただ黙ってるただここにいて何ヶ月も先のことを考えるのだけどそこでもやはり自分はただまっているような気がしている。わからない。ただ待って星の絵を描いて、それでも待ち続けたのか。現実とか社会が雨みたいに降ってくる。それは結局言葉の降雨で、おれはいまそういうことを、しのげるような傘をつくってしのいでいるから、ほんとは辛くなくて、傘さしながら濡れる足元をみて、傘越しにのんきに、だからおれはただ待つことができるから雨を見れることができる。知らない、でも降ってくる現実のことをしらない。ほんとうに。なんにも知らない。知りたいのかどうかもわからない。もっと人に会ってもっといろんなことをして、待たないで生きて、もう25歳になる、なんにもしていない、いやそんなことはないでも大半はただ待っている。車窓の外の変わらない景色をみている。ずっと動かない星座を見て、ただずっとスケッチしている。それが知らない間にとても綺麗な夜空にみえて、星空がうごいてみえて、すごか鮮やかなブルー、きらめく星々がなにかを伝えようとしている気がする。そんなことを知ってなんになる。そう咎める自分が邪魔なんだからそいつを殺せばいいのか。しらない。何も知らない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?