2024/04/20

わたしは物語のことが基本的には苦手なんかなと思う。といってまったくダメなわけじゃないけど。おそらく、ディレクションされたものが苦手なんだと思う。演出とか演技とか。例えば漫画なら、コマ割りとか、トーンとか、タッチとかで演出(ディレクション)を加えて読みやすくしたり、メリハリをつけていくわけだけど、そのようなことがなんか苦手で、それは、多分その、ディレクトされた感情の方向に、自分もちゃんと100パーセント合わせきって、作者の向かわせようとしているわたしの感情、にならなきゃいけないと、焦って緊張するからだと思う。過剰適応的なもの。一方で、個人の日記なんかが読めるのは、そのようなディレクションなしに、ただ書いてあるだけだからだと思う。あと、学術書とか?それと、一部の小説もよめるぞというのに、最近になって気づいて、それがとても嬉しい。たとえば、サミュエル・ベケットの小説や、坂口恭平さんの小説、あと最近は安部公房を読んでいる。古典的な作品は比較的、そういったディレクションが薄めなことが多いのかなと思う。ゲームや映画やドラマが基本的にやっぱり苦手でしかし、やはりまた坂口恭平さんの名前を出すのだけど、かれのドキュメンタリーなら、まじでずっと見ていられる。

最新回。神回です。辛い時も楽しい時もいつでも見られる。困ったらだいたいこれをつけてる。しかも、一回分が2時間くらいで長いし、更新頻度も高い(私くらいハマっていると、それでも遅く感じる)から、大変ありがたい。第4話か5話あたりで、「130話くらいいったら最高だね」みたいな話があった気がするのだけど、ほんとにそうなって欲しい。100話くらいたまれば、2時間×100で、200時間のアーカイブになる。ありがたいことこの上ない。それだけで生きていけます。

物語(ある種のディレクション)が苦手と言ったのだけど、この『坂口恭平生活』(true kyohei sakaguchi show)は、そのようなディレクションがほとんどなくって、またそのディレクションのなさに耐えうる強度があってすごい。そもそも人の生活というのは、本来であればただそれを垂れ流すだけで全然構わないくらいの、エンターテインメント的な強度があるのだと思う。日記は、そのようなエンタメとしてのただの生活を、切り取って書き留めるディレクションの仕方をしているけれど、本当にただ生活を垂れ流す、というやり方がもっと広まって欲しいなと思う。

ほんでこの作品は、毎回2時間ずっと垂れ流しなのが最高です。もうほんとに。例えばこの形式で、あえて言えば、撮影する対象は坂口恭平さんでなくても別に誰でもいい、と思うのだけど、でもこんなふうにただ生活を垂れ流すうえで、常にカメラの存在を気にしながら、これだけただ自然体で生活をやれる人が坂口さん以外でどれだけいるのかどうか分からない。自分でやれるならやってみたい、と気軽に言おうとしたけどやっぱりめちゃくちゃ難しそう。Youtubeにあがっている、ほかのvlog的な作品は、たしかに生活をうつしているのだけど、やはりものすごく編集が入っていて、人の生活というのは落ち着くんだけど、やはりどこか欲望をかきたてられる(煽られる)感じがして、居心地が悪くなる時がある。というのは、つまりすごくcapitalismしている感じというか。vlog的な生活というのはある程度定式化されていて、その定式からはずれたわたし、というのが浮き上がってくるからつらくなるのである。ややこしい言い方をしたけど、ようするに、そねんだりしてしまう。たのしそうやなあとか思って。インスタでキラキラした生活を流されてムカつく、と似ている。けど、vlogの場合、それが「ディレクションされていないありのままのわたし」を前提としているからよけいにしんどくなったりする。といって、「ズボラでだめな生活」みたく、あるいは、猫ミーム的な、自分のダメさや生活の厳しさを強調するディレクションの仕方(反「キラキラ」的なもの)もまた、なんか見ててつらい。人の不幸は蜜の味というけど、実際にはやはりそんなことない。人の不幸を見ているのはつらい。この人に比べたらマシだな、みたく安心したい気持ちは、自分にはめちゃくちゃあるけれど、といって、その安心感だけでやっていくのは難しいのだ。長期的に見て。うぬぼれてしまうし、うぬぼれると後々がつらい。

坂口恭平生活の場合には、坂口さんは映像の中で終始楽しそうというか、自然体でのびのびしていて穏やかなのだけど、そのことにこちらが嫉妬したりしない。なんでなんやろ本当に。いいなあって、しんどくなったりしない。ただただ安心します。ほんで辛そうにもしてないから、あんしんする。それが一番すごい。生活をあれだけ長回しでうつして、ひとつも辛そうにしているシーンがないし、といって、めちゃくちゃハッピー(躁的なハッピーさ)な感じもあまりなくて、ただただ安定していて、おひるねしていたり、会話を楽しんでいたり、気持ちよくドライブしていたり、畑いじりをしていたり、作曲していたり、絵を描いていたり、そのどれもが自然で美しくてすごい。本当に助かっています。このくらいこのシリーズのオタクになっている人はどれだけいるのだろう。これからまた人気が出てくるのかもしれないけど、このニッチさというのもまた嬉しいのかもしれない。最古参ファンを名乗れる。といって、「今ならまだ追いつけるよ」的な焦りとかも感じさせないと思う。どこから見ても(言ってしまえば)同じだし。前回を見ていないとダメ、とかがない。ほんでわたしは、小説読む時も、大抵適当なページから開いて適当に読んで、読み切らないまま次の本に行ったりする。そうしないと読むのが辛い。味がしなくなるまでしゃぶる、みたいな読み方をしています。変なの。適当に読んで、あーこの文章いい〜と思って、また違うページに飛んで、時々1度読んだページをまた読んで…みたいに、とにかくそうしたらいつまでも読んでられる(理論上は)。物語のディレクション(方向)が頭からおしりに向かって一方向に流れていくのに納得がいっていないのかもしれない。そんなことないかも。ともかく。それというのはつまり、アンビエントっぽい読み方やなという気がする。どっから聴いてもOKみたいな。環境音楽的。そう、わたしは、広い意味では環境音楽しか聞けないのだと思う。

(つづくかも)

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