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置き換えてみれば

車椅子での移動はなにかと不便を感じる。車椅子を押して出掛けると、人の視線を感じるし、みんな一刻も早く移動するのがいいという価値観で、どの扉に乗ればエスカレーターの前だ、階段の前だ、という情報もわかるようになってきたのに、車椅子でいけるルートはたいてい遠回りだ。

スムーズに行ける人たちは、自分たちが電車に乗る前にエレベーターの有無や位置確認や乗車事前予約をしてるか思い起こして、よく考えてほしい。


予約って必ずそこに行きます、ってことで、

じゃあ、雨だったら?靴を履くのに手間取ったら?子どもになにかあって遅れたら?全部揃って初めて予約に間に合う、

車椅子利用者になれば、その途端にいつもいつも想像した通りにススムほど、事前準備をする能力が身についていないといけないんでしょうか。無理でしょ。

じゃぁ、その能力を身につけるまで日記も書いてはいけないのでしょうか。思考も、最初から、迷いのない、間違いのない、素晴らしいものを発信しなければいけないのでしょうか。
 
もっと自由で、もっと自分視点で、もっと悩んでて、もっと迷ってて、もっと、もっと、こうしてほしい、こうだったらいいのに…って発信。
それができない。
すぐワガママって言われるから。
100%まともに実現できることしか言ってはいけないの?
ここはおかしいけど、これはわかる、とか、非難じゃなくて、ちゃんと話し合えるなら、なんでも言えるようになる。自分の立場や経験からしかわからないことがたくさんあって、サイドが変われば、見え方が違う。それなのに、話をして、それを否定されるのは違うと思うんだよ。
わたしは、駅員さんの仕事に、車椅子を運ぶ、も入っていてほしいと思っています。
みんながおいしいお米を食べるために、農家だって重いお米運ぶじゃないですか。植えて、刈るだけの仕事じゃないですよ。イノシシが出てくればたたかうし、そんなの仕事内容なんて、目的を果たすために状況でどんどん変わっていくものだと思う。


最近車椅子体験と称して車椅子バスケの体験をする、という授業があるけれど、そんな楽しい、かっこいい体験ではなくて、車椅子に乗って出掛ける機会を義務教育の授業でやってほしい。電車に乗るところまでやってほしい。
自分の体の一部が車椅子だというだけで、少しの段差を自力で超えられず、頭を下げながら電車に乗る体験。
下げるときどう思うのか。

よく想像して、調べて、その想像が、その段取りが全く現実と変わらないのかどうか、確かめてほしい。
事前予約を完璧にってそういうことでしょ。それを当たり前って言うなら文句ひとつ、大変だとは全く言わずにできるはずだから。









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