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開運力で転職を成功に導けるのか!#9

「この物語は「失敗を繰り返した後に成功を価値とる」と言ったいわゆる成功物語ではありません。いろいろな人間関係に出会って翻弄された結果、自己が成長していく過程を書いたノンフィクションです。母の死を経て16回の転職後に起業し25年間、経営者として生きて還暦を迎え開運アドバイサーとして生きて行く道を選んだ物語となっています。苦しい時、何かの判断に役立つことを願っております。興味のある方は是非最後までお付き合いをお願いしたいと思っております。               <み~さん>

第一章 独りで生きて行く
<絶縁>
三月一日、大人しい父と一度だけ大ゲンカをしてしまいました。取っ組み合い寸前で父の胸ぐらを掴み押し上げた時、あまりにも父が弱弱しく身体が軽く感じたので、これは投げ飛ばしちゃうな~と一瞬思った。

血がの登って興奮はしていましたが、即冷静になりそれは止めることができました。やはりそれだけはしちゃいけないと思ったのでしょうね。
原因は私が大学受験を辞めて板前になると宣言した時です。継母が来てから父ともまともに話すこともなくなりました。

姉は鉄砲玉のような女でしたので問題が多く父にとってお金を浪費する人物となっていましたので嫌っていましたが私は公立高でしたしバイトもしていたため比較すると良い子に思われて、何をするのにも好きにさせてくれました。進学に対しても高校受験の時と同じで勝手にどこかに決めて行くのだろうと思っていたようですが、これからの旅館に就職し、板前になると言ったとき初めて激怒したのです。よほど板前になるのが嫌だったのでしょうね。

「大学へ浪人しても行け、就職はさせん」と断言し、それができないなら家を出て行けと言われました。そこまで言われるならと「出て行くから」とあっさりとこちらも断言して3日後に家を出ました。
何故、家を簡単に出る決意できたかといいますとすでに就職を決めて学校にも提出していたからです。先だってのマグロ漁船が没になったことで板前になることを決意した私は蓼科の旅館から霧ヶ峰の旅館に変わった板前のMさんに連絡を取りちゃっかり会いに行っていたのです。

諏訪駅からバスで1時間位の道中の間、曇ったガラス窓を拭きもせず、ただただ「なんて切り出したらいいか」ボーと考えていましたら霧ヶ峰の強清水バス停に到着しました。そこは一面雪に覆われ、白銀の世界でした。
私が来たことは喜んでくれていましたが、バイトの話ではないことが分かったMさんはちょっと怪訝な顔つきになっており、板前になることをはじめは断ってきました。

「大学へ行け」と何度か言われましたが、「どうしても板前になり弟子にしてくれ」と頼んだところ真剣さが通じたのか了解してくれました。彼も真剣に私の事を考えてくれていたのでしょう、「俺の下では良い板前にはなれない、だから俺の親方のところで働け」と「いいか?でもすごく厳しい師匠だから覚悟して行け」と言われました。

後から思うと私が板前には向いていないことはバイトを通じて彼は感じていたのかもしれません。私は諏訪湖畔にある「南湖荘」という厳しい親方に預けられることになったのです。


三月三日、次週の卒業式を迎えることはなく、ボストンバックに身の回りの物をいれ自宅から新宿に向かい特急あずさに乗る間際、見送りに来てくれていたバンド仲間3人が手紙を私にくれました。

見送りに来るなんて知らなかったものですから照れくさいやら、恥ずかしいやら、なんていえばいいかドギマギしていたこと覚えています。その手紙を一通一通と読みながら別れの余韻と二度と家には戻れない「独りで生きて行くんだ」という新たな決意を胸に仕舞いました。

その時に流行ってい曲は ♪”汽車を待つ君の横で僕は時計を気にしている”♪「なごり雪」で三月に入っているのにすごく寒かった気がいたしました。

第二章 16回の転職へ つづく


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