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開運力で転職を成功に導けるのか!#44

この物語は「失敗を繰り返した後に成功を価値とる」と言ったいわゆる成功物語ではありません。いろいろな人間関係に出会って翻弄された結果、自己が成長していく過程を書いたノンフィクションです。母の死を経て16回の転職後に起業し25年間、経営者として生きて還暦を迎え開運アドバイサーとして生きて行く道を選んだ物語となっています。苦しい時、何かの判断に役立つことを願っております。興味のある方は是非最後までお付き合いをお願いしたいと思っております。

第4章 起業するのは大変

<頼もしい奴がいっぱい>
マドレーヌのレジデンスには荻野さんだけ住んでるものと思っていました。
私達が着いた日の夜遅くに若い男、若いといっても26歳の男が入ってきました。
「あれ、東京の人?」と我が家のようにどかどかと鞄を段ボール束に投げて畳替わりの段ボール床に座り込んだ。
「だれ~」私と田中はと荻野さんに目を向けた。

「あ~、こいつね、近所の日本人相手の免税店で働いいるんだよ、でもオーナーがアラブの人で、まあ、ケチらしいんだ。給与は歩合制でこいつ売れないもんだからお金が無いわけよ!

アパート追い出せれてうろうろ彷徨っていたんで、俺が声をかたらさあ、頼ってきたわけよ!

こいつの嫌な所はさ~、汚いんだよ、こいつ、ここにきて1週間になるけど一度もシャワーを浴びてる姿を見ていないだよ。」

「そんなことは無いよ~、Gは大げさなんだよ~」と彼が荻野さんに言った。パリでは荻野さんは「G」と呼ばれているのか~と私は思った。


「お前、足がくさいからその靴下脱いで洗え!ずっと履いているだろ」「俺、靴下なんて履いてないよ!」
この後、私は腰が向けるぐらいにびっくりしたのだ。


彼が履いていないと言うが私が見ると確かに靴下は履いているのだ。   この部屋には古い電球式のルームスタンドで部屋はあまり明るくなく、パッと見では良く見えないのです。良く見ると足首から真っ黒になっているのは一見靴下には見えるが実は違っていた、もしかしたらですが、汚れで綺麗に靴下の形になっているのです。
「お前、どうやってそうな風に黒くなるんだ、さっさと洗ってこい!」とGが激怒した。
彼は渋々、バスルームに行きたぶん洗ったのであろう、しかし汚れは落ちていないのだ。さっきと対して変わらないのです。
私はその後さらにびっくりするのだ。

なんと彼はマジックで黒く塗っていたと告白するのだ。つまり、靴下が買えないので靴下をはいているように見せるために書いたと言っていたのだ。 それからはみんな大笑いだったのは当たり前だ!

田中が翌日になって、初めてのパリだから履きなれた革靴をやめて、記念にパリで靴をかったのだ。その不要になった革靴をみて「靴下マジック男」は「いらないのなら、欲しい」と田中になれなしく言い寄っていた。

田中もかわそうに思ったのか靴を彼にあげた。当然彼はとても喜んだ、 「いいのかな~わるいな~」と何度も言って田中の靴を履いた。     すると「ピッタリだ!」叫んで騒いでいた。

次の日、彼を見ると黒い足首の下から赤黒く光っているのが見えたのです。「どうかしたのか?」と聞くと「いや~靴擦れです」

「え、気のピッタリとか言ってたよね」

「え~最初は合うとおもったんですよ」

「田中!お前の足、何センチ?」

「25センチです」

「じゃあ、君は?」

「27センチです」田中と私は顔を見合わせて

「それじゃあ、靴擦れしますよ、大丈夫?」

「これ、もらったものですから、自分で細工していいですよね」田中に言った。 

彼はハサミを持ってきて、なんと靴のかかとの部分をハサミを入れたのです。まあ、理屈から言って、2センチ大きい訳ですから、はみ出して履けるのです。

「それを履いて仕事出来るの?」と心配になって聞いてみた。

「前は23センチの靴を捨てあったので、それを履きました。」

「どうやって?」

「え~とその時は、つま先をハサミで切りました。なので指が見えるでしょう、それじゃオーナーに怒られますのでマジックを塗ったのです。」

実にたくましい、すごい男だと私は笑いより感心したものだ。
彼はパリに来て半年らしい、当然就労ビザなど持っていないので普通の所では働けないのです。それをいいことにしてそのオーナーは安く使っていたのでしょう。同じような感じでパリに夢を持って、憧れてきて悲惨な目にあったに日本人に何人かあったことがある。

しかしその中で1人で成功をした男もいた。その男が数年後にヨーロッパ商事が危機になった時に助けてくれるのです。海外での生活は自分を逞しくするのです。だから私はそんな男達を尊敬している。

当社の田中もたいした者であった。玉子と牛乳を買ってこさせた時があった。レジデンスの裏にショップがあり、そこに買いに行かせたのだが1時間たっても帰ってこないことがあった。

道に迷ったのか?そんな間違えるような場所でもないので心配になっていると田中が頼まれた玉子と牛乳を手に持って帰ってきた。

「どこまで行ったんだ、心配したぞ」と私が聞くと。

「なんか、ボラレタみたいなんです。小銭を全部取られました。」としきりに首をかしげるのです。

彼はコインで5フランと100サンチームを持っていたようです。ですから100サンチーム出してお釣りをもらうつもりでいたが、お釣りは出ない、そして店主は金を出せとジェスチャーをする。

田中は100、払ったんだから玉子と牛乳をよこせと押し問答をしたようだ。帰れと言われたが、ここで帰っては日本人の名がすたると思って頑張ったらしい。素晴らしい根性だ。

「すると小銭はほかにないのか?」と言う感じだったので有り金全部見せたらそれをグイッととって帰れ指図されようだ。

「ところで、いくら取られた?」

「1F書いてある6枚と100って書いてあるのが1枚です」

「それだけで玉子と牛乳は買えないぞ、100って書いてあるのは1フランのことだ、得をしたな~、それにしても値切るなんて大したもんだ」と荻野さんに褒められた。

田中も海外で通用する人間、逞しい人間だなと昨日に続いてもう一度思った。しかし実は知識が無いだけだったのです。

田中と荻野さんは年が親子ほど離れていましたがノリが一緒だったものですからウマがあうのでしょう、ヴィトンの買付で店員に馬鹿にされようともしっかりと買ってきていました。

その点私は、気にしいでしたので上手く買えないことが多かったです。  2週間ほど過ぎて私の今回の目的であった開店のためにの仕入れをしにパリからフィレンツエに向かうことになりました。

初めは飛行機で行くはずだったのですが、もったいないと言うこと荻野さんがニースやモナコのヴィトンショップで買付したいとなりレンタカーで行くことになりました。荻野さんは古いベンツで買付していましたが燃費が悪いのでレンタカーにしたのです。

パリからフィレンツまで飛行機だと1時間半、車だと12時間位です。しかし、ニース、モナコを寄るのでニースで1泊することになったのです。行きは3人で交代しながら運手をしました。モナコが終わり海岸が素晴らしく綺麗なニースに着きました。そして安宿を借り一泊することにしました。

夕食後、田中はいったん3人でホテルに戻ったのですが直ぐに外出しました。彼はプータに会いにいったのです。夜になるとどこともなく立ちんぼがいました。その女性に会いにいったのです。

後にも先のも彼は詳しい話はしてくれませんでしたがその時は20分もしないうちに「ぼられた」と言って帰ってきました。翌日フィレンツエに向けて出発しました。ニースからフィレンツエは5時間ほどで着きます。

いい気なものです、二人はランチにビールを飲み、海岸で泳ぎたいとかいいだしました。当然、飲んで疲れて2足りは後部座席で寝てしまいます。

私は運転はあまり好きではありませんでし、米国と違ってオートマチックではなくマニュアルの左ハンドルです、慣れていないループの大カーブが結構大変でおたおたしたのを覚えいます。

14時に待ち合わせをしたフィレンツエのホテルに着いたのは14時半ごろだったでしょうか?そこに居たのはオウムに似たロマーノと彼の娘で大学を卒業して手伝っていたニコレッタでした。この二人に会わなけば私の独立の夢は現実にならなかったのです。

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