とある者の手記

その日は雨の日だった。
いつもより遅れて家を出た日だった。
職場に着き、頭を下げながら謝罪の言葉を述べ、足早にいつもの作業へと取り掛かる。
降りしきる雨が屋根に当たり、静かに音を立てていた。
雨の日は嫌いではなかった。湿った土の匂いも好きだし、この雨音も好きだった。嫌いなところを強いて挙げるなら、寒くなるのと服が濡れることくらいだった。

雨は段々と強さを増していった。今朝の遅刻を責め立てているようにも感じられた。
それにつられるかのように、次第に風も強まっていたようだった。
屋根に当たる雨が風に煽られて、静かな雨音に緩急が付けられていた。まるで寄せては返す波のようだった。

波といえば、海の近くに住んでいたときのことを思い出す。
海は好きだった。どこまでも続く藍色の海、空高く広がる青い空。その2つの青が織り成す世界が大好きだった。
車で海に向かって、サンダルのまま海に向かって駆け出したこともあった。私の足跡が波で消されていくのを眺めていた。

ふと。いつかの日の記憶を思い出す。
何も上手くいかないと感じ、自らの未来に希望が持てなくなっていた時期。
自暴自棄になって、真夜中に自転車1つで家を飛び出した日のこと。
行くあてもないのに、ひたすらペダルを漕ぎ続けていた。橙色の古びた街灯と、道を行き交う車の前照灯だけが、私の背を刺すように照らしていた。

しばらく走ると波の音が聞こえてくる。
ペダルを踏む度にその音は次第に大きくなっていく。
やがて開けた場所に出た。名も知らぬ道路の先に、海があるのを感じる。寄せては返す波が、目と鼻の先にあるのだと分かった。

それでも私は漕ぎ続けた。
海沿いの道路を、自転車のライトだけを頼りに突き進んだ。波の音がすぐそばに聴こえる。
街灯も月明かりも無い真っ暗闇の中、ひたすら前へ前へと走っていった。一体何が私をそうさせるのか。その答えは、見つかりそうになかった。あるいは、考えようともしなかった。
夜も更けていたせいか、往来する車はない。街灯も月明かりも、歩道を歩く人もいない。
暗い道にあるのは、さざ波の音だけ。

漕いでも漕いでも景色は黒から変わることはなさそうだった。
心なしか波の音が段々と大きくなっているように感じた。
海が近いのに、ガードレールはなかった。気持ち程度に置かれた縁石と道路のコンクリートだけが、海と陸を区切る境界線の役目を果たしていた。
……波の音が大きくなるように感じる。
風に煽られているのだろうか。あるいは、今走っている道の闇の深さに恐怖を煽られていたのだろうか。
このまま走っていたら、そのうち飲み込まれてしまうのではないかとも思えるほどだった。
私の耳を、頭を、波の音が支配していく。
このままここに居たら、帰ってこれなくなる。
潜在的な恐怖を感じた。
私は自転車を降りて少し立ち止まり、くるりと身を翻した。
そしてそのまま、来た方向へと引き返して行くのだった。
波に追われるように。あるいは、逃げるように。
ペダルを踏む足に、自然と力が入っていた。街や車の灯りが、遠くで光っているのが見えた。


不意に、自分の名前を呼ばれていたことに気がついた。
私は記憶の中から引き戻された。
軽く会釈をし、今日2度目の謝罪をする。

波の音はまだ続いていた。密室であるこの部屋の中は、さざ波で満たされているようだった。
「いつの間に飲み込まれたんだろう」
そうポツリと呟きながら、ズボンのポケットに手を伸ばす。
そこから取り出した1粒の白い小さな塊を手に取ると、私は周りを見渡す。
そうして誰もこちらを見ていないことを確認すると、私はその白い塊を口に含み、飲み込むのだった。


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