魂に(きっと、)よいもの ー鈴木るみこさんのこと

11月のはじめ、琵琶湖のほとりへ。
鈴木るみこさんに会いに行った。

鈴木るみこさんは編集や執筆、たくさんの文章と本を残したひとだ。わたしのるみこさんとの出会いは、とある美術館のミュージアムショップだった。
「きっと、あなたも好きな文章だと思う。読んでみて。」
気の置けない友人が耳元でそう囁いて、初めてるみこさんの本を手に取った。

最初はただなんとなく読んでいた。そしてまた、読む。おなじ道を散歩するようにまた、読む。そのうち、このなんでもなさの中に大切な宝物がそおっと隠されてるのをみつけてしまった。それから『クウネル』や『暮らしの手帖』を掘り起こしてはるみこさんの名前を探すようになる。

昨年、ご病気で亡くなったのを知った。
るみこさんが亡くなったというしらせは、ただの一読者だったわたしにはとても遠く、そのあともなんの手がかりもつかむことはできなかった。だからこの日、るみこさんを偲ぶちいさな会が開かれるのをみつけて、わたしはおもわず出かけたのだ。



比叡山の麓のまち、坂本。
迷路みたいな細い路地をぬけて、しずかな庭をくぐっった。カリンの実の並ぶテーブルを過ぎ、ちいさな森の小屋『むあ文庫』の扉を開ける。
るみこさんと同窓だった方、仕事での仲間、そしてるみこさんの文章が大好きなひとたちが集まっていた。はじめて教室に集められた1年生みたいに、そわそわと緊張が走る。やがて、ひとり、ひとり、とるみこさんへの思いを語りはじめた。これからるみこさんの本に出会うという方もいる。言葉は少なくても、みんながるみこさんを今も大切にしていて、るみこさんの文章に勇気をもらっていたんだ、と胸が熱くなった。

不安でこわくて眠れない夜。
なんだか疲れちゃった日。
気持ちがぎざぎざしてるとき。
家に帰って、もう何度もひらいて癖がついているそのページを開けては、あたたかな灯りが宿る写真とともに眺めた。

ページをめくるあいだ、船に乗って旅をする。
文章のリズムを、ゆっくりと息でなぞる。
止まっていた心がゆらり、ゆらり、と動き出す。
そうやってこの場所に戻ってきた頃には、なんでもない自分にすこしだけ戻っている。

こんにちは、とか、ありがとう、とか、いやなものはいや、とか。そういうまっさらな言葉を、わたしは今日、言えていただろうか。自分はひとりだった、と気付いて、からだのずっと深いところに流れる水脈に触れて、ほんのりあったかくなって。だから自分に嘘をついた分だけ、その日の涙がほろほろとこぼれた。今日の自分の居場所をたしかめるために、るみこさんの文章を読んでいた。

やっと見つけた細い糸をたどる思いでここへ来たひとがわたしの他にもいる。今まで声にすることのなかった「るみこさん、」という呼びかけ。胸の奥にしまっていた名前を口にしたとき、魂がふるふるとよろこんだ。あぁ、わたしはずっと、この名前が聞こえる場所に来たかったんだな。

会が始まる前、『むあ文庫』の窓の向こうで、新緑の五月のような陽射しが風に揺れていた。まるで、ここだけ違う季節のなかにあるみたいに。この会を主宰した鳩胸厚子さんも、今朝、この場所で準備をしながら撮った写真にうつくしい光が射し込んでいたのをみつけて『るみこちゃんだ、るみこちゃんだ』とよろこんだのだと話してくれた。



あのとき、るみこさんの文章を旅したあとのようにまなざし洗われて、るみこさんが見ていた景色のなかにいたとしたら。ひとりになった帰り道、そんなふうに想う。るみこさんの文章がわたしに教えてくれたのはこういうことだ。目の前で揺れはじめた物語の水面に、自分で漕ぎ出す櫂を持つこと。その青の明るさも暗さもただひとつの海の深さだということ。

あたりが暗くなって、さっきまで過ごした時が胸のあたりにぼんやり明かりを灯してくれた。それぞれの夜、それぞれの灯り。こんなとき、わたしはやっぱりるみこさんの文章を読みたくなる。



「魂によいもの」は、クウネル2013年11月号のるみこさんの記事からタイトルをいただき、リレーしました。『むあ文庫』さんでのみなさんとの出会いに感謝をこめて。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?