父のケーキ


仕事から帰ってくる父の手には、大概、白い紙袋がさがっていた。
紙袋の中身は、ケーキやお菓子。そのときどきの父の流行りによってモロゾフのチーズケーキだったり、ヴィタメールのブラウニーだったり、トップスのチョコレートケーキになったりしたけれど、なぜか今も口のなかに広がる甘ったるさといっしょに思い出すのは、紅茶のババロアケーキだ。直径15センチほどのちいさなホールのケーキ。あの甘さは飛び抜けていたと思う。

白い箱を開けると、まんまるのケーキが入っている。真ん中にはお店の名前が入った金色の紙片がささっていた。飾りといえばそれくらい。あれは一体どこのお店のケーキだったんだろう。見た目からしても、百貨店で買ってくるようなケーキとは違っていて、その気取らなさと素朴さと砂糖がこれでもかというくらい入った甘ったるさが今まで出会ったケーキにはないものだった。わたしと妹より母がいちばん気に入っていたように思う。手頃な値段ということもあったのだろう、週に何度もあのケーキを食べていた時期があった。夕飯を食べ終わったあと、さぁ別腹、別腹、と言って、お茶を飲みながらみんなで座卓に移って食べる、すこし軽めのデザート。

ミルクティーのババロアの上には、アールグレイの茶色い透明のゼリーが薄い層になってのっかっていた。八等分(ときには六等分)したら、ほんのふたくち、みくちで食べきれてしまうくらいの大きさ。包丁を入れると、長い通勤を常温で持ち運ばれたババロアはすっかり柔らかくなっていて、三角の形はくたくたとくずれてしまった。とろとろに溶けたババロアは、甘いクリームを食べてるようで、東京から横浜の端っこまで運んできてくれた父の時間と、会社帰りのひとたちがぎゅっと詰まった車内のあたたかさを思う。わたしたちは日々、無邪気に声をあげて、父とおみやげの帰りを出迎えた。

だから、父親というのはいつもおみやげを買って帰ってきてくれるものなのだとわたしは勝手に思いこんでいた。中学生になってからだっただろうか、食後のおやつの話を友人たちにしたら一様に驚かれたことがある。

 ケーキって誕生日以外に食べるものなの?
 お父さんがケーキを買ってくるの?

信じられない!というのがその場のみんなの反応だった。もともと食べること、甘いものが好きな一家だし、何より、食後の甘い時間は家族全員にとって欠かすことのできない愉しみだった。そのときのわたしはあたりまえに、どの家族にも、形は違えどそんな時間があるのだと思っていた。だから、どうもそうではないらしいということを知ってわたしはとても驚いた。そのとき話をしたのはほんの数人だけだけれど、父親との関わりについて聞いてみると、語るほどの関わりをみんなが持っていないように思えた。

わたしの父は古き良き時代の公務員だったので…と言ってしまえば簡単に終わってしまう話だ。でもそれ以上に、父は仕事に対しての向き合い方が同世代のサラリーマンとすこし違っていたのかもしれないな、と今は思う。わたしは仕事で忙しそうにしたり苛立ったりしてる父の姿をほとんど見たことがない(大変そうにしていたりちょっと疲れていたりしたのは何度も見たけれど)。仕事の話もたくさんしてくれた。わたしは興味津々でその話を聞いていた。それでいてなんだかノンシャランと生きてる父。

それから何十年も経って、自分が働く側になったときようやく、自分が大切にしてるものが、声高には語らない父の背中につよく影響を受けているのだなぁと知った。働きつづけながらどんな風に家族や大切な人と関わりたいのか。何を大切に働きたい(生きたい)のか。楽しく、働く。無論、楽しく、生きる。今になってそのことを地道に突き通した父の姿勢がよく見えるようになった。



大学生になった妹が百貨店のケーキ屋さんでアルバイトをはじめてから、日々のおみやげ係は父から妹へと移行していった。妹もまた、同じように白い紙袋をさげて、売れ残ったケーキを毎日のように連れて帰ってきた。今度は、父は、食べる側としてわたしたちに混ざってそこにいた。あのときみたいに、嬉しそうにして。

美味しさや見た目で言ったらそりゃあ百貨店のケーキ屋の方が洗練されてるに決まってる。でもやっぱり、あの甘ったるくて、くたくたのババロアケーキが、わたしたちの時間だった、と今は思う。


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