遠い国、遠い色


幼稚園のころ、近所のちいさな絵画教室に通っていた。

両親が共に働いていたので、幼稚園から帰るとそのまま祖父母の家に預けられた。園バスの停留所でわたしの帰りを待ってくれていたのは、祖父母だったり、そのとき祖父母の家に住んでいた叔父や叔母だった。

絵画教室は、その家から歩いてすぐのところにあった。記憶はあまりにおぼろげで、先生の顔や教室の雰囲気はほとんど覚えていない。それなのに、手にあまる大きさのスケッチブックを得意気に抱えて、家から教室までの坂道をタッタカ駆けのぼったり駆け下りたりしていたことだけはよく覚えている。
叔父や叔母はもともと絵や手仕事が好きなひとで、わたしはふたりと絵を描いたり、工作をしていっしょに遊んでもらいながら、父と母の帰りを待っていた。

絵画教室は、ただ自分の好きな絵を描く、それだけの場所だった。なにかを教えてもらうこともなかった。その年頃の女の子がそうであるように、わたしもアニメやサンリオのキャラクターに夢中で、買ってもらったBの濃い鉛筆と36色の色鉛筆でそんな絵ばかりを毎週描いていた。ピンク色や薄紫の髪の毛と、大きな目の女の子。真っ赤なチューリップの上にはちょうちょが飛ぶ。誰でも描ける絵に気分よく夢中になって、いくらでも同じ絵を描いていられた。
なにを描いても、先生はなんにもいわなかった。だけれど、その日の最後にはいつも画用紙の裏に記号をつけた。AとかA’とかBとかB’とか。それがどういう意味をもつのか、幼いわたしには長いことよくわからなかったけれど、あるとき、<AとB><AとA’>には上下関係があることを知って(だれかに質問をしたのかもしれない)、なんだかものすごくいやな気持ちになった。あの子の絵はAで、わたしの絵はBだった。急に絵を描く時間が楽しくなくなってしまった。それと同時に、自分ひとりぶんの絵しか知らなかったわたしは、自分とべつのひとが描く、自分とまったくちがう絵の存在をはじめて知った。

それから数十年経って、わたしはあのときの先生と同じような仕事をしている。こどものアトリエの先生。「なぜ、この仕事をしているの?」と聞かれても理由がいくつもありすぎて未だにうまく説明ができないのだけれど(愉しいから続けていることだけは説明できる)、こどもを目の前に今もちくちくと胸に刺さるのは、あのとき「いやだな」と感じたちいさな自分のちっぽけな思いだ。
こどもの描いた絵に優劣をつけない。大人の目線で、いいとかよくないとかこうしたらいいとかを言わない。あのとき言われたことがほんとうにいやだったから、こどもたちにはそうしない。今度はわたしがそうしない番になる。教室をはじめてから数年経ったあるとき、そう決めた。まだ20代のころ。

今もあのときの記憶を昨日のことのようにしっかり持ちつづけているのだから、ずいぶんとしつこい性格なのはわかっている。そんなことを思い浮かべながら部屋の掃除をしていたら、棚に飾ってある水彩絵の具のパレットが教室の先生からの贈り物だったことを急に思い出して、ひさびさに手にとった。
端っこに「WEST GERMANY」と書かれたそのパレットには、24色の固形になった水彩絵の具がはまっている。見たことのない色。見たことのない並び。なんて名前で呼んだらいいのかわからない色。わたしがいつも目にしていた、均等に順序よく並んでいる色鉛筆のケースのなかにいる色とはまったく違う。はじめて手にしたときのおどろきとよろこびがじわりじわりと甦ってきた。そうそう。そうだった。夜の宝石みたいな青のとなりに、大人の女のひとが着るワンピースみたいな真紅があって。空にうかぶ月みたいな猫の目のきいろの下には、ほくほくした土からその春いちばんに芽を出したきみどりがあって。黒にも種類がある。茶色にも濃淡がある。どれもばらばらに並んでて、おどってるみたい。「あか」とか「しゅいろ」、「みずいろ」。名前のついた色しか知らなかったわたしは、そこからはみだした色のなかにすっかり入り込んで、飽きることなく遠い国の遠い色たちと遊んでいた。ここじゃないところには、べつのところがあるんだな。べつのところには、べつのいろがあるんだな。

きっと、水に濡らしたら色はなくなってしまう。そう思ったわたしは結局、絵の具としては一度も使うことなく、数十年分の埃をかぶったパレットを今もこうして部屋の隅に飾っている。視線に入っていても目に止めないほど、その色たちはずいぶん長いあいだ近くにいてくれた。パレットからふたつだけ、絵の具の塊がまるごと抜け落ちているのは、大掃除や引っ越しのときにどこかに落としてきてしまったのだろうか。ここにはどんな色があったのか。

なるほど。あの場所で、わたしは宝物も受けとっていたんだ。ほの暗かった記憶にぼんやりと明かりが灯る。今もときどきふと手をとめて、いつまでも見入ってしまう。まだあのときには国なんて単位があることも知らなかった。遠い国の遠い色たち。


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