潜在的な中間項

クリスマスが近づく12月、それに関連する言表が散見されるようになっている。
特に、恋人に関する言及の多さは顕著であり、その活性自体については手放しに賞賛したいところである。
一方で、こうした言及の山積について以下のように私はTwitterで言及した。

彼女がいるかとクリスマスに予定があるかについて如何なる関係項上の論理を認めることも因果を認めることも実際不可能であることを先ず理解せよ

https://x.com/neineinenene2nd/status/1734826565299826958?s=20

これは、恋人がいることとクリスマスに予定があることを抱き合わせたり、実際何か関係があることを示すツイートが山のようにあることに対しての反応である。それは恋人を認めない者のものであることも、恋人を意識する者のものでもある。
さてこの言表が不完全であることは明々白々である。なぜならば、一切の根拠が言明されていないからである。それゆえ、本稿ではこの私のツイートの背後にある論理や、そこから発展させた考えについて説明しようと思う。Twitterというプラットフォームにおいては、字数制限などもあり十分な説明はし難いと考えるため、このnoteという媒体を利用したい算段である。


まず、件のツイートについて、二つの命題があることとしよう。即ち、

1.あるものは恋人を持つ
2.あるものはクリスマスに予定を持つ

の二件である。こう定式化される言表は、例えば、「クリスマス寂しいから恋人が欲しい」などの背後にあるものである。あるいはもっと明確に「私は恋人がいるから、クリスマス予定あるけど」などの言表も考えられる。ここではこれらによる推論構造は一意に定めない。2⇒1の含意もその逆もありえることとしよう。あるいは、言明されない命題が隠れていることもあり得る。
いずれにせよ、ここで行いたいのは、両者の関係を見ることである。つまり、何らかの意味で、これらが関係している(それは因果的でも推論関係でもいいが)と言いたいのである。そうでなければ、これらを並べ立てる意義がどこにあろうか。
またこれらの命題を簡単な記号で書いてみよう。すなわち、一般化を行う試みである。x∈X、X:={x|xは人間である}とおいて、

「xが恋人を持つ」をPx、「xがクリスマスに予定がある」をQxと表記する。

さて、ここらで道具立てを終え、推論について考えてみよう。
一般的な論理学においては、言明されない命題については考えないこととなっている。パースの言及する関係項の論理においては、言明されない命題は偽として扱われるとされる。それゆえ、まずはPxとQxだけで推論をしよう。

このとき、いくつかの推論が非妥当であることは自明である。実際に考えてくれればすぐに分かるだろうが、これはPxとQxに関連がないからである。一つの意味では、これらを繋ぐ命題はないということであり、もうひとつは、中間項となる項がないと表現できる。
前者の意味では、もし前件にPxとQxの連言、選言、含意をそれぞれ「一つだけ」置くのであれば、連言が真であるとき、既にQxの真は言及されている無価値な推論となり、選言の場合、特にPxが真でQxが偽の時は妥当でない推論、Pxが偽でQxが真のときはトートロジーと同等となり、含意であれば、選言と同様に考えて無駄なものとなる。どれもPxとQxについて関係を言うことはできないだろう。
一方で上記の論理演算子を使わないときは後者の問題がある。例えば、
1.「ソクラテスは人間である」
2.「人間は死ぬ」
3.「ソクラテスは死ぬ」
のような推論の際、2.は1.と3.を繋げていることが分かる。それは、「人間」という中間項があることで、推移的になるのに十分となるからである。1.と3.だけあるのが上記のPxとQxの話である。ソクラテスの例でみれば、人間であることについてそれが死するものであるという条件付けは言われていないため、偽とされる。それゆえ、その条件付けをしないまま結論付けて3.を導出することは妥当な推論ではない。そこでは、真な命題と偽な命題から結論を導くと言う原理的に不可能なことをしているのである。
あるいは、PxとQxを前件に並べ、それらを演算子で結んだものを後件とする場合もあるが、そもそもそれは両者の関係や因果を示すことにはならないと直観されるはずであるから、論理上は十分認められるべきだがここでは一旦排除する。(Px, Qx|=Px⇒Qxは妥当になる。)
こうした議論からも分かると私が信じるのは、PxとQxの二件のみでは妥当な推論はできないということである。

では、どのときにPxとQxに関係を与えられるだろうか。
これはPxとQxの関係を明示してやればいい。
簡単なのは、Px, (Px⇒Qx)|=Qxだろう。反例モデルを考えれば、v(Qx)=0だが、これは前件のv(Px)=1, v(Px⇒Qx)=1に矛盾する。それゆえこの推論は妥当だ。ここで行っているのは、推論を三段論法にすることである。つまり、上記のソクラテスの例をこの二件において完成させているのである。つまり、自然言語にしたときに中間項が生まれたのである。
実際これは「xは恋人を持つ、恋人を持つものはクリスマスに予定がある、xはクリスマスに予定がある」と、恋人を持つものが中間項の役割を果たしている。
これはPx、Qxの位置を変えても成立することは明らかである。

このようにして、関連の無い二命題を与えられても、それを繋ぐ命題があれば十分に推論を成立させられ、関係を考えられる。

しかし問題は簡単に見つけられる。それは論理から一歩引いてメタ的、或いは意味論的に考えたときに現れる。
ここでは推論を考える上で連言や選言を与えてみたが、上記で言うところのPx⇒Qxが真である保証はどこにもない。なぜならば、立ち返ってみると、我々に与えられているのはあくまで、PxとQxであり、その真理値については不明であるからである。その上で、これらから推論を認めるにはどうしようかという試行錯誤の中で、少なくとも一方を結論に置くと言う志向があった。そして何らかの前提を置く必要もあり、それゆえ真偽を措定するに至ったのである。論理演算子を前件に加えなかった推論では、それ自体が非妥当だったり、両者の関係を考えられなかったりした。しかし、そこではあくまで所与の命題についてのみ真偽が言われていた。一方で、前件に論理演算子を与えた場合、それはPxとQxとがそれぞれ真であることも前件にするような情報の無い無価値な場合を除いて、連言と含意が真である実際的な担保はない。選言については、反例モデルが成立する隙さえ与える。
このように、実際命題の意味表示を考えると、上記の関係性を常に言うことは難しくなる。実際、「恋人を持つものはクリスマスに予定がある」という命題は真であることを保留すべきである。もし、この「恋人を持つもの」を全称化すれば、この当座の可能世界においても反例となる個物は考えられるし、そうした個物の存在のみ言及するなら、PxやQxが全称でも存在でも、不都合が生じるだろう。
この問題解決は単純な方法がある。PxとQxの関係を言う命題を明示すればいい。言明すればいい。されど日常の言明の段階では、これが為されないために往々にしてPxとQxだけが並べられて、さもそこに関係があるかのように名指しされるのである。
この、実際言及されない、しかし中間項を生むような、或いは言明された他の命題の橋渡しをするような命題を、実際に言われないということに注目して、「潜在的命題」と呼ぼう。
この命題の所在は自然の側ではないことが多い。つまり、実在者ではないことが可能的である。所在は少なくとも主体の内部にある。主体がが、偽であると信じる命題は、潜在的命題とは言えない。なぜならば、それが言及されず、かつ主体が真でもないとするのであれば、そのひとまとまりの発話において何も橋渡しの機能を主体においてなさない。そのときは橋がない以上、並べられた顕在的な命題はただ並べられただけであり、関係があるとは言いがたいだろう。例えば発話者によって実際に「空が青い。空は綺麗」と並べられていても、彼が「空が青いならば空は綺麗である」などの命題を信じていないとき、顕在的な命題は何の関係もない。せいぜい空について言及しているとして連関が言えるだけである。もし空の青さと綺麗さを結合させる命題などを潜在的命題として信じているならば、関係が生じ、顕在的な言明両者は関係をもち、少なくとも内在主義的認識論において正当化も可能である。潜在的命題は必ずしも実際に真である必要はない。ここで求められるのはあくまで関係の成立であり、まさに内在主義的に正当化できるのであれば、それが今に否定されるとしても関係を生むことができるため、主体が信じていることが重要となる。発話者が潜在的命題となるものを信じていないが、受け手が信じている場合もある。これも十分に関係が生まれている。それは主体が受け手になっているだけである。潜在的命題となるようなものが共有されているとき、数的に多の主体が一見関係のない命題同士に関係を見て取るのである。もし、「恋人がいればクリスマスに予定があるのは至極当然で、なんなら反例は一切存在しないね」ということが共有されているのであれば、その集合において件のPxとQxは関係があるような命題で、並べられるだけでもなんらかの関係は認められる。もちろん、他の潜在的命題を考えて、PxとQxだけ並べることで、更なる潜在的命題を示唆することもできる。例えばこれらの二件に加えて、「恋人を持つものはクリスマスに予定がある」、「クリスマスに予定があるものは当日ケーキを食べる」という潜在的命題も前件に置けば、「恋人を持つものはクリスマスにケーキを食べる」という潜在的命題を結論として示唆できる。内在主義的正当化が出来たり、あるいは「社会」において共有される常識や一定の普及がある知識を根拠にして潜在的命題を活用した推論を行う限りにおいて、顕在化された命題は前件にも後件にも自由になれる。

ただし、当然のことながらこれは問題がある。
潜在的命題は定義上言及されないため、それが問いただされない限り顕在化せず、もともと言及されていた命題群の関係は明白でない点である。全宇宙において真とされるものがあるのであれば、その共有を以て、それを潜在的命題としても良いかもしれないが、少なくとも真っ当な哲学者や科学者であればこれを嘲笑するだろう。なぜならば絶対的真理の断定は哲学、自然科学の両領域でありえないからである。それゆえ、上述の知識や常識の共有は一定の範囲に留まることは明らかである。このとき、その範囲外の主体からすれば、顕在化された一見関係ない命題群は、実際関係ないものにのみ認識される。もし、可能的に共有されることも認めてよいのであれば、件の範囲は広域化するだろうが、その共有可能性は時空間的に制限されるであろうし、やはり絶対的真理は言えない以上、限定化されると考えられる。
潜在的命題の利用に関する実践上の問題点は、誤解をされることが常であることである。なぜならば、潜在的命題は受け手からすれば認識できない対象であるからだ。他者自体がその全容を主体は把握できず、断片的な他者についても一定の習慣づけとしてのみ把握するのであるから、主体に知らされない潜在的命題の把握は不可能に近いだろう。よしんば、潜在的命題に目途を付けられても、ある主体が思いついたその命題を外部が推測して特定することはまず出来まい。それゆえ、問いただされない限り、意図された正当化は「為されず」、誤謬されることが考えられる。実際の言明の限りでは、潜在的命題が背後にあったとしても、単に関係を言い難い命題が並んでいるだけである。
潜在的命題の利用は、日常において散見される。それはその命題の共有が担保される限りにおいて利便性が極めて高いからである。一方で、その日常の発話においても誤謬を十分に引き起こしうる方法であることは留意すべきである。
ここで私はこうした潜在的命題の利用を禁止するものではない。あくまで、その性質から誤謬が生じやすいことを告げるものである。加えて、これを利用したと意識するならば、発話者は可謬性について責を自らに課すべきであるし、受け手は非難の前に理解に努めるべきというのである。誤謬されることを恐れるのであれば明白に関係を示すような根拠を示せばいいだけであるし、背後に何らかの根拠があると分かるのであればそれについて問うてみればよいだけである。

さて立ち返れば、恋人を持つことと、クリスマスに予定があることを並べることは、ただそれだけであれば何の意義もないことが言える。ただし、なにか潜在的な関係を示す命題が用意される限りでは、十分に関係が考えられる。


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