名前はまだないの独り教育再興戦略日記⑤

~靴そろえ編~
 「学校の下駄箱で靴をそろえることに意味があるのか。そろえることを強要するのは気持ちが悪いだけではないか。」
という趣旨のつぶやきを見聞きしたことがある。私の答えは「意味がある。しかし、意味を理解せずに行われるそれは意味がない。」である。
 確かに「そろえよう」というマインドには承服いたしかねる。「隣の人と同じように」「自分勝手なことをするな。みんなに迷惑がかかる」などの考え方は、鬱陶しい同調圧力を生む。本当の意思を隠し、あるいは思考を停止させ、みんなにそろえる。これほど恐ろしく、むなしいことはない。嫌悪感を持つのもわかる。
 一方で、「みんなの中の一人」「みんなは一人のために、一人はみんなのために」「みんなの喜びのために一人一人が少し我慢をすることが大事。」など、全体主義とは言わないまでも、ある程度の集団を維持するためには必要な努力だと思う。特に、一つのクラスの中に、35人(かつては40人)の児童生徒を、安全に生活させるという最初から困難な状況を成立させるには、最低限一人一人に努力してもらう部分はある。
 しかしながら、私が冒頭の発言を否定するのはこれらの理由からではない。靴をそろえるのは、人とそろえるのではない。それは、己を整えるための所作だからである。物事は整然とした状態から雑然とした状態へと向かうものである。宇宙の原則は拡散である。常に一所にまとまっているものはなく、形あるものは必ずいずれ朽ちる。このように気取って語らずとも、部屋は放っておけば散らかるし、児童生徒が学ぶ教室は言わずもがなである。それを意識して整えることは、己の生活をコントロールしようとする、人間にしかできない高度な所作なのである。整然とした環境を自分で作ることで、心穏やかに過ごせ、学習にも集中することができる。「靴をそろえる」という小さな行動をきっかけにし、机の中やロッカーを整え、もしかしたら対人関係においても丁寧に接することができるかもしれない。細かなことを疎かにしない態度が、落ち着いた人間性を作るのではないか。
 だから私は靴をそろえることは素晴らしいと思う。繰り返しになるが、他人とそろえるのではない。己を整えるのである。そして、己を整えることのよさを体感している個人が多い、意識の高い集団を形成することにつながるのである。以上の理由から靴をそろえる指導は、今後も継続して行う意味があると考えている。
 個別最適な学びと協働的な学びのハイブリットを提供し、GIGAスクール構想によるダイナミックな交流が行われるであろう、未来の学校であっても、「己を整える」ことの必要性は淘汰されない。学ぶ主体は常に個人である。アナログであれ、デジタルであれ、一斉であれ、個別であれ、履修主義であれ、修得主義であれ、二項対立で考える意味はないが、一人の人間としての個人が整っていなければ、その議論に何の意味もなさない。
 教育基本法の中にある教育の目的、「人格の完成」にも関わる重要事項が、靴をそろえることには宿っているのである。昔から大切にされてきたものの全てに意味があると決めつけるのは思考停止だが、基本的には意味があるものが多い、気がする。
                     2021年12月30日(木)

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