名前はまだないの独り教育再興戦略日記⑥

 ~生きる力と忘却編~

 児童生徒の記憶に残ることが教師冥利に尽きるとする考えがある。私もその考えの持主であった。理由は簡単で、私自身が小学校から大学に至るまでのプロセスで、様々な先生とのやり取りをプラスなものとして記憶に留めていたからだ。しかし、今の考えは少し違う。
 もちろん、児童生徒が記憶に残してくれるというならば、それはそれでありがたいような気もする。何故ありがたいと感じるのか。自分の行ったことが、ある意味で承認されたことになるからだろう。教師はどこか承認欲求が強いところがある、気がする。だからと言って、子どもに「いい先生」と思われ、記憶に留めてもらうことに精を出すのは職責をはき違えていると言ってもいいだろう。
 教師の仕事は、児童生徒の「人格の完成」を目指し、教育することである。目の前の子どもに「生きる力」をつけることである。また目の前の子どもが大人になった時に、強く生きていけるように、そこにつながる日々を提供することである。故に、教師自身が児童生徒の記憶に残るかどうかは、はっきり言ってどうでもいい。
 今の肉体はいつの食事が作ったものだろうか。
「そうだ、10歳11か月の時に、朝ごはんで母が作ってくれた卵焼きが僕の肉体の一部として、今も支えてくれている。」
と、食べたものをいちいち記憶し、それを人生を乗り切るための切り札として大事に頭に取っておいてある、という者はかなりの少数派であろう。一週間前の木曜日に何を食べたのか、思い出せない人の方が多いのではないか。しかし、それでよいのである。人間の頭はクラウドのように無限に記憶力があるわけではない。消化吸収し、排泄することで、新しいものが食べられるようになる。忘れることで新しいことが入ってくるのである。
 ただ事実として、10歳11か月の朝ごはんも、一週間前の木曜日の食事も、間違いなく血肉となり、生きる力となっている。教師の仕事もそれでよいのではないか。
「忘れられてもいい。目の前の子どもに生きる力をつける。その子が大人になって、自分の力で歩ける人生を手人れる一助となるのだ。それが俺の責務だ。」
と、煉獄さん(鬼滅の刃)のように己の責務を果たせばよいのではないか。最近はそのように考えている。この方が、よほど美しい。記憶に残ろうと躍起になって、実のない教育を行うことを防ぐことができる。
 さて、話は変わるが、教師の側も児童生徒を覚えているかというと、私が出会ってきた多くの教員は、たくさんの児童生徒のことを覚えているように思う。それはそれで素晴らしいことだと思う。しかし、これまでの時代と違い、社会が変わるスピードがものすごく加速している。昨年度の実践が、今年度は使えない、ということがざらにある。教師の脳内メモリーの使い方も、今までと同じようであってはいけないと考える。社会の変化を的確に捉え、社会の未来を想像し、目の前の子ども達に意味のある教育を施さなければならない。過去のやり方に固執することを捨て、常に目の前の子どもと最善を求めることが責務となる。したがって、過去の児童生徒を記憶しておくことに、脳を使っていては、おそらくもたないであろう。
 ここからは蛇足だが、教師が児童生徒のことを忘れていても、ぜひ責めないでほしい。落ち込む必要もない。それは責務を果たしていることと同義である。もしあなたが児童生徒の立場でかつての自分の教師を訪ねるときは、自分から情報をしっかりと出しながら接してほしい。
「○○年度に、○○○学校の○年○組で~~のようにお世話になった○○○○です。」
このくらい丁寧に接しても忘れられていることもある。それは仕方のないことだ。落ち込むことはない。間違っても、
 「先生、覚えてますか?私のこと。」
と、記憶を問うような真似はしないでほしい。そう問われた刹那、教師は全身から汗を噴き出し、脳内の全メモリーを全てひっくり返す作業を、必死に行わなくてはならない。その結果、思い出せないことも多々ある。しかし、相手の気を悪くしてはいけないと思い、その場を切り抜けるためだけの、実のない会話が繰り広げられることになるだろう。
 忘られてもいい。間違いなくあなたとの思い出は私の血肉となり、生きる力となってくれている。それは、教師にとっても、児童生徒にとっても同じことなのである。毎日を必死に生きた同志なのだから。というマインドを大切にしたい。
2022年1月5日(水)

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