齋藤武夫先生の歴史授業 〜日本に対する見方が変わる(後編)
さて、齋藤武夫先生による記念すべき初講座が始まったのは平成26年5月24日のこと。この年、仲間の協力もあり、3回の講座を開くことができた。
最初の講座では、わずか20名ほどの参加者だった。私からすれば少ない方だったが、齋藤先生には十分な人数だったようだ。
なぜなら、これまで教員相手に、それも20代の若い先生などを相手に講座をすることなどなかったのだから。齋藤先生がやりたかったのは実はこれだったのだ。それを実現させたことは、実に感慨深いものがあった。
初めの頃は、齋藤先生の『学校でまなびたい歴史』をアマゾンで購入しては、参加者にプレゼントしていた。それこそ、100円単位で売られていたが、何十冊と購入するたびに値段が上がっていった。その結果、今では万単位の値段がついており、かなり、プレミアムな本になっている。
話を戻したい。
1年間で3回の講座を進めていく過程で、欲が出てきた。
まず、一つは先生方に受講していただくときのテキストである。
私が平成16年度に追試した時に参考にした資料は不完全なものだった。だから、これから追試する先生には、しっかりとしたものを準備して、それを渡せばすぐにでも追試できる、というくらいのものが欲しかった。当然、齋藤先生にお願いすることになる。
最初の講座を開催した後、70時間分の授業解説のつまった冊子づくりについて齋藤先生に相談をした。9月に投げかけ、10月にはかなり具体的な提案をし、なんと、11月には出版社の方へ具体的な相談をさせていただくところまでこぎつけた。
本当は、『学校でまなびたい歴史』同様、書店での出版までこぎつけたかったが、齋藤先生と出版社の間でいろいろと話をしていく過程で、齋藤先生ご自身で、「自費出版」という形をとることとなった。これで、テキストを使って講座ができるという見通しができた。
そして、もう一つ。
初めの講座から5年生を担任する2年目の女性教員が参加していたが、その先生がある時、ふと、こんなことをもらしてくれた。
「渡邉先生、来年度、たぶん、持ち上がることになると思うんですけど、歴史の授業があるんですよね…不安です…」
それを聴き、すぐに閃いた。
「そっか…だったら、齋藤先生に全時間、解説してもらおっか!」
このことがきっかけで、次の年は齋藤先生が作られた70時間分の授業を7回に分けて講義をしていただくことになった。これもまた、画期的なことだと思う。齋藤先生、心の中では、とんでもない奴につかまってしまった、なんて思っているのではないかと思えるくらい、齋藤先生への無茶ぶりの連続だった。でも、齋藤先生はすべて快く引き受けてくださった。
その年の12月末、私は齋藤先生に次のようなメッセージを送っている。
「来年から私にとっては、戦後を取り戻す60年の2回目の10年のスタートの年になります。最初の10年の最後の1年で齋藤先生とこのような形でお会いできたのも何かの縁だと思っております。来年もご指導のほど、よろしくお願いいたします」
次の年、齋藤先生は、それまで取り組まれていた自由主義史観研究会を終わりにし、新たに『授業づくりJAPAN』という名称で、新たな活動を始めることになった。私は県の教育委員会の中でも最も激務だと言われている課への異動となった。
平成27年4月11日、いよいよ千葉での歴史講座が本格的に始まった。全7回、70時間分の歴史の授業を講義していただくという前代未聞の講座。
昨年の講座の実績が少しずつ芽を出し、5月には40名近くの参加者が来てくださるようになる。その時の感想を齋藤先生は次のように綴っておられる。
「ほんとうにあの若者たちが日本の希望です。だいきくんも!今回もまた渡邉先生の働きに感服いたしました。有難うございました。また、懇親会も含めてとても楽しかった。なんというか青春がよみがえる(笑)感じです。それにしても、感想文や懇親会のスピーチから、若い先生方(特に女性!)の感性と知性に打たれます。核心をわしづかみにするような力がありました。ただただ感動です」
ここで私の気付きを記しておきたい。
齋藤先生の感想の中に「若い女性の感性と知性に打たれます」とあるが、私もそう感じていた。
齋藤先生の講座の参加者はいつも女性教員の方が多かった。平均しても3分の2は女性の参加者だったと記憶している。特に、おもしろかったのは、20代の若い女性教員である。受講した次の月の会から友人を連れてきてくれたのである。これはあまり男性には見られない行動だった。いいものを素直に受け取り、まわりに広める。そして、友人を巻き込んで一緒に参加する。男性は自分の派閥を作ったり、大義があるのに分裂したりと、情けない実態を聞くことも多い。むしろ、女性の方がさっぱりしていて、時代を動かす力は男性よりもあるのではないかと思えるような気がしている。女性の柔軟性、直観力、行動力はこれからの希望である。
一方で、気になることもあった。
それまで、日本について話をする機会が増えたのだが、反応の悪い年代があった。40代である。それも男性が多い。私の伝え方が悪かったのかもしれないが、日本のことをよく捉えることに抵抗があるようなのだ。
何か共通項があるだろうか。一緒に活動をしているK先生は、熱烈な日本大好き人間だ。彼は同じ40代。何が違うのだろうか。
これでは簡単に触れておきたい。
それは、育ってきた環境と本人の性格の違いが大きいということである。
まず、親が「日本」に対して肯定的か否定的か。教わってきた教師が「日本」に対して肯定的か否定的か。実は今の40代が中学生の頃、ありもしない「従軍慰安婦」という言葉が教科書に記載されるようになった。多感な時期に「日本は悪い国なので」と教わり、さらに、本人が真面目な性格だと、それをまともに受け止めてしまう。真面目な人ほど、一度、学習したことから抜け出せない傾向にある。だから、大人になってから「実は日本はそんなに悪くないんだよ」「日本は世界の中でも稀な国なんだよ」と言われても素直に受け入れられないのである。このことについてはいずれ、もう少しじっくりと述べてみたい。ただ、私の仮説はおそらく当たっていると思う。
話を戻したい。
5月に40人の参加者は、6月、7月も続き、ようやく、70時間の授業書が収められた冊子が完成し、参加者が手にすることができるようになった。
8月には北海道でも講座される。この時、一人の女性教員が泣き出したという。彼女は、ずっと悩んでいたという。要は、自分のご先祖様が悪いことをしたと教えらえてきたことで、縦のつながりに対して不信感を抱いていたのであった。それを齋藤先生の授業が払しょくしてくれたのだ。私が、マイナスの歴史を小さなころに教えるべきではないというのは、そういう弊害があるからである。
高森明勅先生は、よく「教育は未来を創る事業である」とおっしゃる。
「幼い頃はプラスの教育をしなければならない。マイナスから入ると、無気力な人間に育つ。そのように育てられると、壁にぶつかったときに立ち向かうのではなくあきらめてしまう子に育つ。むしろ、その気力を育てるにはプラスの教育をすべきで、たとえ、マイナスの要素があったとしても、それは物事の判断ができるような高校生や大学になってから少しずつ与え、あとは自分で考え、判断させればよいのだ」とのこと。納得である。
ここ10年近く、親の虐待が問題になっているが、これと同じ構造なのではないかと考えている。ことさら、日本を貶める内容を小さな頃から教えることは、精神的な虐待と一緒なのではないかと。このことについて、さらに研究を深めていきたい。
さて、4月から始めてきた全時間解説型講座は9月にはなんと50人を突破。10月も同じ勢いで続き、11月、すべての講座を終えた。さすがに疲れたのであろう。齋藤先生は12月に突発性難聴を患い、入院。まさに命をかけた取り組みになる。先生も若くない。この時ばかりは、ちょっと無理をさせすぎたかと反省。
ただし、齋藤先生が元気になると、その反省も生かせず、平成28年度、再び、全授業解説型講座を開始。昨年の7月に自費出版した1000部は1年待たずに完売。
講座が進むにつれ、若い先生方がどんどん結果を出すようになっていく。
わずか3年目の歴史の嫌いだった女性教員の学級では、子供達が休み時間になっても論争が続いて休み時間にならなかったとか。
ある先生は、すでに追試2回目となり、先生方で作っているグループページに、独自で作成したワークシートをアップし、先生方が追試をする際の手間を少しでも楽にするようにしたり。
この年から、少しずつ他県でも齋藤先生を招いて講座を開催する県が出てきた。
次の年の平成29年4月には、齋藤先生の地元埼玉県でも全授業解説型講座が始まる。
私は、校長として出身地の小学校に着任。まず、6年担任に、齋藤先生の授業書とパワーポイントのデータをプレゼントした。
9月には、齋藤先生学校にお招きして、千葉の偉人である「伊能忠敬」の授業を6年児童にしてもらった。実際に伊能忠敬の作った地図(縮小版)を授業の最後に眺めた時の児童の歓声は忘れられない。
次の年、再び、齋藤先生を学校にお招きし、なんと、導入の授業である『国づくりのバトン 命のバトン』を6年生児童にしていただいた。
この授業をした者はわかるが、一気に歴史が自分のこととしてとらえることができる。スイッチの入った子供たちの学びはすごかった。
ある子は自分のおじいちゃんに取材し、なんと、1632年までさかのぼり、自分のご先祖様を確認し、レポートしてきた。力のある授業を受けると、自ら調べたくなるのである。
私は兼ねてから人間学を学ぶ月刊誌『致知』を購読している。この雑誌には、偉人に関することや現代に活躍する人々の対談やインタビューが取り上げられている。
いつからか、齋藤先生が致知に取り上げられたらいいなあと思い、致知出版社の担当者に働きかけていた。その働きかけが功を奏したかは定かではないが、令和元年の6月に初めて齋藤先生の記事が掲載されることになる。なんとも言えない気持ちだった。(※と思っていたら、なんと、2004年に「致知」に掲載されていたことを齋藤先生が思い出し、連絡して来られた。ですから、久々の掲載ということになる)
これで終わりかと思いきや、令和3年最新号である2月号に服部剛先生(授業づくりJAPAN横浜支部)との対談が掲載されているではないか。
これからは教育界のみならず、政治家にも影響を及ぼして欲しいと思う。まともに日本のことを考え仕事をしている政治家はほんの一握りだから。
現在は、コロナ禍ということもあり、令和2年4月からオンライン勉強会を立ち上げた。6年担任を中心に、齋藤先生の歴史を教える者、これから教える者が齋藤先生から授業を学ぶ会である。今後もコツコツと続けていきたい。
なんでもそうだが、トップダウンを教育界は嫌う。特に、教員はそうだ。だから、お偉いさんから齋藤先生の授業をおろしてもらおうなんて思わない。
しかし、それでは間に合わない。
今の政治家、官僚には残念だが「日本」を守れない。だったら、私たち国民一人一人が賢くならなければならない。賢くなるとは、「日本の歴史を日本人の立場で学ぶ」ことである。それには、齋藤先生の歴史を学ぶことである。
これまで、齋藤先生の歴史授業を学んできた子供たちが、全国各地に散らばっているが、ものすごい数になってきている。この動きを止めず、さらに広げ、私たち国民一人一人が「日本」を守れる、当たり前の国になるよう、私も国民の一人として活動を続けていきたい。
この時代に、齋藤武夫先生がいて、日本のための歴史を世に出してくださったことにあらためて感謝し、齋藤先生との出会いから今までの振り返りを終わりにしたい。
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