【ボクの細道】あとがき「ボクを作ったもの」

誰かに相談してみても僕らのゆく道は変わらない

 旅に出てからほぼ2ヶ月、帰ってきてから1か月、結局51編、詩を作り終わってないけど、先にあとがきから書くスタイルもたまにはいいと思う。あとに書かないあとがきなんて、まえがきみたいでいいと思う。小学生の頃、授業の課題の創作作文をプロローグから書き始めて、プロローグすら書き終わらない、みたいなことだ。
 文庫版の小説を読む価値は、結構な確率で単行本あとがきと文庫版あとがきが付いてくることだと思う。初版のときのあとがきは、いやなんとかどうにか書き終わったという安堵感が見え隠れするのが好きで、文庫版のときにはもうすっかりあの時の苦労を忘れて、編集者が書けと言うからやけっぱちで、結構この作品は自分でも気に入ってるとか適当に書いてやがったりする。
 あ、なんだ、旅の苦労を忘れて、またしばらくして旅に出るボクと同じだ。このnoteだってそうだ。自分でも書けやしない企画を立てては、自分で台無しにして行くのは、とりあえず穴を掘って、もう一度埋め直すだけの税金を満額使うための公共事業みたいなもので、それで自分が満足ならそれでいいのだ。それを誰かが読んで、鼻で笑えばいい。
 誰かのためとか、社会のためとか、そういう言葉を持ち出すと急に胡散臭くなる。特に自分の場合。だから、自分がやりたいことをやって、それが幾ばくか誰かのためになっていればいい。誰かのためになっていないならやめればいい。そのどちらでもないなら、多分、純粋に読者が少ないということだから、泣けばいい。
 空はどうしようもなく高いのだけれど、高緯度地帯に来ると下の方まで見せてくれない。臨時ニュースのテロップみたいなもので、画面の縦横比が変わったように、ヨーロッパじゃ夕暮れが真っ赤に燃えない。日本の夕焼けは文字通りの出血大サービスで、ホントに血が滴るようで好きだったけど、サンセットにテンションが上がらないのはもったいない。
 高い場所にいると下はよく見えない。高所恐怖症の原因があるとしたら多分それだと思ってる。医学的見地から見たら絶対嘘だろうから、テロップみたいにお詫びして訂正しておくけど、高すぎて怖いというより、高すぎて下がよく見えないから怖いんじゃないかと思う。
 例えば、飛行機に乗っているとき、高度1万と何千メートルですとか言われも、ピンと来ない。雲より高いですとか、厚紙を何回折ると届くとか、富士山3つ重ねたより高いとか言われてもピンと来ない。そんな富士山重ねるって、どうぶつタワーバトルじゃないんだから。
 なかやまきんに君がお互いのギリギリ聞こえる距離で「ヤ―」と叫んで行って、伝言ゲームしていったら、148人分とかの方がまだわかりやすい。そのときには、伝わる内容もだいぶ変わって伝わってて、「ヤー」も「ミー」とかに変わってそうだけど。なんなら、「筋肉は裏切らない」とかぐらいまで情報量増えててもいい。
 空から見れば、地上は遠く、人工衛星から見たら、もうどうしようもない位置にボクらは住んでる。きんにくん1個師団でも足りないぐらいの距離だ。そんな衛星画像でできた、旅を終えた後のグーグルマップには、行った場所場所に黄色の星印のピンが打ってあって、それをクリーム色のボール紙に径の太い青ペンの濃いインクを乗せて滑らせるようになぞると、旅した場所が浮かび上がる。
 そこで出会った人の顔も、食べた料理も、見た景色も、全部無かったことにして、地図にしてしまう。死後の伊能忠敬の暇つぶしみたいにして、交通量調査みたいにカウンターを押すためだけに長旅を続けたわけじゃない。意識を高度1万メートルまで戻して、夜間爆撃機のナビゲーターになる。
 白い月の真ん中の黒い影は、双発のレシプロエンジンから白い吐息を流し続けながら、雲の上を滑っていく。脆い下腹を黒塗りに悪魔の角の斜め銃座をはやしたユンカースが狙っているかもしれない。窓のない部屋で、高度計とコンパスとにらめっこしながら針路を見る。
 どんな人が住んでるのかもわからない街に爆弾を落としては帰る、落としては帰る。この連載の副題である、ボクを作ったものは、イギリスの戦争児童文学短篇集の『ブラッカムの爆撃機』の中の一編の同題から拝借したものだ。
 空から見れば、ボクらの顔は見えないだろう。空を飛ぶ鷲には、蟻が歩んでいるのは見えまい。だけど、蟻は歩いている。確かに前進しているのだ。その進みはのろいのかもしれないが、でも確かに歩いているということを知っているのならば、何事も焦る必要はないと、そう教わった気がする。



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