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【#29】サブスクは好き

サブスクは好き自分がしている恋によく似た歌を探せるから

ベオグラード行きのバスにて


サブスク。



サブスクリプションの略。

スプレッドシートをスプシと略されると、スプレッドから「スプ」を、シートからは「シ」だけを持って来たのが、ボクはいまだに心のどこかで納得がいかない。

その論理でいくと、あつぎの「あ」と、だいちの「だい」だけとって「あだい」と呼んでも良さげではある。けれども、そのリズムがしっくりくるのはかもめんたるのう大さんだけで、コント職人にだけ許された名前はボクには似合わないのだろう。

でも、サブスクって略し方にはしっくり来る。サブスクリプションの前4文字。後ろのリプション部分5文字を切り捨てても、納得感がある。社会保障政策じゃ出来ない切り捨ての大胆さがありながら、有権者を首肯させるセンスがある。

だからといって、サブスク自体を最初から好きになれるほど、ボクは素直じゃなかった。定額で何かをし放題なものは、ボクには学生が打ち上げで行く焼肉屋ぐらいしか想像がつかなかった。

音楽と牛肉は、音楽で例えるならクラシックとパンクぐらい、牛肉で例えるならカルビと軟骨ぐらい違う。あ、普通は例えるものを例えられるもので例えないのか。まぁ、その例えの原則なんてどうでも良くなるぐらいに、捉えようのないものだった。

CD自体の歴史がそもそも浅いわけで、A面とB面という概念があった時代に生まれていないボクが、何かを言うことはおこがましいことかもしれない。B面側にこそ名曲があるとか言ってみたかったし。

それでも、やっぱ中古のレコード屋を漁るだとか、歌詞カードを逐語訳しながら好きな洋楽の意味を落とし込んでいくみたいな、作業の価値はあると言いたい。

受験生だったあの頃、一日カンヅメの冬季講習を終えて凝り固まった肩を回しながら、高田馬場で中古のCDを物色した。同級生が聴いていないようなバンドを探そうとしたけど、結局勇気がなくて落とし所としてジョンレノンの伝記映画のサントラのCDを買って帰ったこと。

土建の警備のバイトで会った、バンドマン崩れのおじさんとおにいさんのぴったり中央値の彼が教えてくれた、サニーデイ・サービスの「東京」をバイト代で買ったこと。山形からバンドマンの夢を追って東京に出て来て10年目の彼には、東京はどう見えていたんだろう、そう思いながら買った。

それだけじゃない。夏のぬけがらも、HAPPY SONGSも、RAW LIFEも、人にはそれぞれ事情があるも、ひとつとしてボクの人生に欠けてはいけない大事なアルバムたちだ。

大学生になってサブスクで音楽を聴くようになってから、渋谷系にどハマりして元ネタ探しに奮起するようになった。言ってしまえば、家族のトーナメント表をなぞってく作業で、この曲に影響を与えたのはコレでとかをあーだのこーだの言う訳である。

フリッパーズ・ギターの元ネタは、ペイルファウンテンズ、アズテックカメラ、それにヒットパレードだとか鉱脈を掘り当てるのが、自分だけが深い世界を知っている気になれて悦に入れた。さしずめ、プロ野球選手を見て、高校時代の出身校を言いながらブツブツ言うおじさん仕草を洋楽を元ネタにすることでボヤかしているのだ。

歌詞の元ネタには、70年代のアメリカ文学が多くて、レイモンド・カーヴァーにスティーヴン・ミルハウザーだろうからといって、白水社の硬派な短編集を買ってみたりして文化人になれた気がした。アノラックパーカーを着て下北沢に出れば、サブカル男子になれた気がするのと同じ原理だ。

ちなみにサブスクの語感の由来は、絶対にサブカルチャーの短縮系サブカルで、サブカル語感の由来は絶対にカエサルである。ボクの中のミルクボーイ内海がそう言っているので確信している。ボクの中の内海は、単独ライブのつかみで、「はい、今、賽は振られました〜」で会場の空気を掴んでいたので間違いないだろう。

話をルビコン河を再度渡ってサブスクに戻すと、確かにサブスクは便利で、渋谷系のド世代だった人たちは、自分たちで円盤買ったり、文学を読み漁ったりしながら、元ネタを求めていたはずだ。だから、ボクがサブスクで検索欄にポチポチとするだけの元ネタ探しなんて、たかが知れていると思う。Yahooニュースを見て世相がわかった気になってるぐらい浅い理解だ。

だから、サブスクは便利で、楽しくて、満足感をくれる。だけど、胸を張って好きとは言えるものではなかった。擦り切れるまで聴いたMP3ファイルなんてものはなくて、画面が指紋だらけになるだけ。手触りの無い青春は、マスクをした姿しか見たことがない同級生みたいなものだ。

別に小室の時代までは、皮膚に触れるような感覚が音楽にあったと言うわけでは無い。だって、そのとき、まだ生まれてないし。(2000年生)

「思えばラブソングなんて歌ってみるとき 必ず目当ての誰かがいたような」

そう浜ちゃんが歌ってたとき、まだ本来目に見えないはずの音楽が、確かにレコードとして、カセットとして、あるいはCDとして実物としてあったのだと思う。だから、自分がかけたカーステレオが、反応の悪いジュークボックスが、有線イヤホンで聴くウォークマンで、なんとなくラブソングをかけたとき、自分の恋していることに気付いたのだろう。

だけど、今は違う。

自分の恋を代わりに言葉にしてくれる歌を探して、プレイリストにはラブソングが積もっていく、そんでもってみんながみんな、これは自分の歌、自分のための歌、自分のことを歌った歌だって曲を見つける。

あの人が聴いている曲、あの人に教えてもらった曲、あの人が今もしかしたら聴いているかもしれない曲。そんな淡い期待が、二進法でしかないはずの小さな画面に、プレイリストの形で詰まっているのかもしれない。

こういう風に書くと、さも、ボクが今、恋をしているみたいになる。そうだとしたら、それはそれで衝動に駆られた中学生が、国語のノートの裏表紙側に書かれた小説みたいで悪い感じはしない。イタくはあるが。

そうでないにしても、交通事故に遭った去年のクリスマス、独り身になって寂しく過ごした、あの時よりかはマシだろうとか、思いながら。(といってもツイてないことも多いし、人にとてみ迷惑かけた年末になっているけど)

とりあえず、今、ウルフルズの「暴れだす」を聴きながら記事を書いている。自分がしている恋というよりは、自分のダメさが染み渡る曲を探せるから、と詠むべきだったかもしれない。とりあえず、今年はピザハットのバイクにやられることもなかったことに感謝して。

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