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声優を推すにも才能がいるという話

「女性声優興味あり」と「女性声優興味なし」の狭間にいて自分について思ったことを書き連ねたい。

アイドルマスターシリーズがとても好きなのだが、こういったキャラクターコンテンツの大きな特徴として、「声優に担当キャラの衣装を着せてライブで歌って踊らせる」というものがある。
こういうコンテンツに一定以上ハマると声優のライブを観るようになるので、コンテンツのファンと声優のファン(声豚)というものは切っても切れない、表裏一体とも言える関係になってくる。

ただ自分と同じくらいアイマスにハマっている人の投稿を見たり、話したりしたときに、その声優に対して向ける熱量の大きさに引いてしまうことが多い。
いや、引くは嘘。俺はそういう人たちに対して畏れにも似た敬意を抱いている。
人に推される人間になるために才能が必要なのは当たり前だけど、人を推すことにも才能は要求されるはずだ。

自分の周囲の人間の声優の推し方はとてもエネルギッシュで、なんというか推しの一挙手一投足に対してとても「自分事」な感じがする。
対して俺は美麗な顔としぐさ、演技が見られるならおおむね十分で、それ以上のもの(ファンサとか)を受容したいという主体的な意欲が驚くほど湧かない。
そういうことの自慢話はウケるからしているという面が大きい。
この推し方はモナリザを見て「いい絵だな」と思うことと本質的には同じで、周りと比べて非常に無機的だなと感じる。それが自分の中ではずっとひそかなコンプレックスなのだ。

昔、大ファンだった藤川球児に会ったことがある。ただ、間近に対面しても死ぬほど平常心だったし、握手しても「手だな」と思った。サインボールも持っているけど「サインが書かれたボールだ」と思っている。

自分にとっては、火の玉ストレートを投げてセーブを量産するということが藤川球児の本質だったし、清原果耶や高杉真宙や本木雅弘の「顔が美しくて演技が上手い」ということが彼らを好きな理由で何年推していてもそれ以外の理由が増えたことがない。

自分は他者にも生(性)と自分と同じ意識体系があるということを実感することに係る感受性が弱いんだと思う。もしかしたら自分以外の人間に対して真剣に興味を持った経験さえ無いのかもしれない。
それゆえに声優含めて誰かを「推す才能」がない。
だから誰かのファンを本気でやれている人を見ると、誰かのことを自分事のように感じる感受性、一種の共感能力とも言えるものの差を痛感させられて小さな劣等感を抱く。
あるいは極度の面食いなだけかもしれない。最近愛美さんが気になっている。
こんな人間が医者になろうとしてはいけないと思う。

だから、声優の結婚発表に対して心から祝福するビジョンはおろか、ショックを受けるビジョンさえ浮かばない。これは推しのみならず友人の結婚に対しても同じだけど。
ただ、「和久井優さんが推しです」とたびたび表明している以上、何もリアクションを起こさないのは「こいつショック受けすぎて放心している」と思われそうでなんか癪だ。
なので結婚報告に際してどういうツイートをするかは事前に考えている。
今考えているのは、
「おまいら推しの結婚くらいで動揺しすぎwwwちょっと落ち着けwwww」
という内容をめちゃめちゃな誤字脱字をしながら投稿するというものだ。その時は「ぽまえがまず落ち着けよww」とリプしてほしい。


布教タイム:美しい顔の人たち

日本の七千円札紙幣は清原果耶さん、三千円札紙幣は和久井優さんを肖像画に推薦します。

スーパー二次元フェイス

日本人に到達できるカッコ良さの上限ギリギリ

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