大人が抱く「寂しさ」からくるエゴと攻撃性

今日、こんなツイートをした。

なぜこんなツイートをしようと思ったか。

理由はふたつ。

ひとつめは、彼らのような「寂しさに支配されている人」の言動によって、私は傷ついたことがあるから。

ふたつめは、私自身にも、寂しさに支配された過去があるから。


すぐに牙を剥く大人。

鈍感力が皆無な私は、毎回しっかりその言葉を受け取って、しっかり傷ついて、帰り道にしっかり大泣きしてた。笑

当時は、「鈍感力」にめちゃくちゃ憧れて、会社では主に無表情・飄々としてるね、と言われることを目指していた。

でも、持って生まれた性格は変えられない。

私の心は、毎日しっかり傷ついてしまっていた。


簡単に逃げると言う選択肢も選びたくなかったので、そこで私が取った方法。

「彼らはなぜ、こんな言動をするのか」という問いと向き合った。

だって、彼らはしたくてしてるように見えなかったから。

もう漏れ出てしまってる繊細な心や、強い牙に隠しきれてない弱さが見えちゃってたから。

そこに寄り添うことができれば、私の半径2メートルくらいは、穏やかなムードが流れるんじゃないかなと考えた。

結局、当時の私にはそんな器がなく、身体を壊してしまい暫くお休みと言う情けない結末になってしまったが……。笑



そして、ふたつめの理由について。

つい最近まで、私も得体の知れない(正しくは、知ろうとしていなかった)寂しさが在った。

……今、隣でYouTubeを見ながらケラケラ笑ってる夫に出会うまで。

これに関しては、夫とのあいだで、決定的な出来事があったとか、決め手となる言葉があったとか、そういうわけでは全くなくて。

童話「北風と太陽」(知らない人はググってね!)の太陽のように、じんわり、少しずつ、寂しさはどこかに行ってしまった。

人生の絶対的な味方。私の凹みを必要としてくれる存在。私が見えてないものを見ながら生きている夫。


日常の些細な会話や、彼の下す決断、
流してくれる涙や、私を守ろうとする強さ、
結婚してから聞いた「オレは寂しがり屋なんだ」という言葉。

書き出せばキリがないけれど、少しずつ、本当に少しずつ、「楽しさ」というかたちで、私の寂しさをどっかに追いやってくれたのだろう。


…まとめると、上記のツイートに込めた想いは、
まず自分の中にある「寂しさ」に気づくこと。気づくことさえできれば、目が覚めて、あなたに必要な人が意外とすぐ近くにいること、気づくんじゃないかなって。そういう感じかな。

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