見出し画像

『抱きしめたい!』は「アンチ・シンデレラ・ストーリー」なのか

かなり久々のnote投稿はついこの間書き上げた卒論 “トレンディドラマ『抱きしめたい!』におけるセクシュアリティと文化的表象” のうちのひとつの章を抜粋してご紹介✨

『抱きしめたい!』は現在FODで配信中なので、未視聴の方も忘れちゃった方もこちらから🧚‍♀️
→ https://fod-sp.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4265/

次回からは他の章もnote用に書き換えて投稿したいと思います。
それではどうぞ!


文化学研究所の阿部孝太郎氏は『テレビドラマの構造分析・序説 : その方法と意義を中心に』で80年代後半以降のテレビドラマについて、次のように語る。

一見して分かることだが、ドラマは、カネ・権力軸と愛情軸の対立を主軸にして展開している。(中略)実は、八〇年代後半以降の人気ドラマの多くに、有名大学出身のエリート王子様役
が登場する(たとえば「君の瞳をタイホする」の三上博史は有名国立大学出の秀才刑事、「抱きしめたい」の石田純一は有名私立大学出身のトレンディー雑誌の編集者、「思い出に変わるまで」の同じく石田は有名国立大学出の商社マン、「東京ラブストーリー」の江口洋介は医者の卵といった配役)のだが、(中略)いずれにせよヒロインは決してこれらの「カネ・権力」側の男性と結ばれていない。
(阿部, 1997, pp.134-135)

これを「アンチ・シンデレラ・ストーリー」とし、さらに続けて

意外なことに、シンデレラ・ストーリーという古今東西ほとんど普遍的に存在する(Bettelheim 1976)───先の恋愛小説も基本的には、貴族的なヒーローと結ばれるというシンデレラ・ストーリーーである―──物語の構造に、八〇年代後半以降人気の純愛ドラマは合致していない。
(阿部, 1997, p.135)


と語っている。貴族的なヒーローと結ばれない「アンチ・シンデレラ・ストーリー」の例として『抱きしめたい!』が挙げられているということは、阿部の論文においてこの作品が純愛ドラマに分類されているからであろう。
 しかし、本稿ではまず『抱きしめたい!』が純愛ドラマであること、一般的な連続ドラマの構造を取っているということを否定したい。なぜなら、純愛ドラマ(ないし一般的な連続ドラマ)は結ばれるためのプロセスや葛藤を描いた後、それが何かしらのカタチとなって結果を生むものであるのに対し、『抱きしめたい!』は全員が葛藤後元の日常に戻っていくという終わり方をするからである。

・麻子→独身のまま。圭介とは「自分が女でいることをやめる」ことで関係に一線を引く。修治とは破局せず結婚は保留ということになっているが、1話でも修治とは既に出会っており、お互いに気のある状態だったため「元の形に戻っている」と言える。
・夏子→圭介とは婚姻関係を継続。銀平とは別れのシーンもなければ後に語られることも無く、この2人の関係は物語から完全にフェードアウトさせられている。
・純→最初から最後まで一貫して麻子に好意を寄せている。
・知佳→11話で完全に圭介のことを諦め、実家の郡山に帰って以来音沙汰無し。
また、ほとんどの登場人物が1話以前から付き合いがあるため、「出会い」や「結ばれるプロセス」がほぼ描かれていないのである。唯一それらの描写がしっかりとある夏子と銀平は、最後には自然消滅し、なかったことにされている。

 つまり、一般的な連続ドラマはスタート地点とゴール地点で距離があるのに対し、『抱きしめたい!』はスタート地点とゴール地点が一周まわって同じ場所にあるのだ。そしてこれこそが何度もスペシャルドラマを制作することができる理由である。例えるなら、年をとる『名探偵コナン』である。
 さて、『抱きしめたい!』が「アンチ・シンデレラ・ストーリー」であるか否かを論じる前にその前提を否定してしまったが、こちらについてもしっかりと考えていきたい。修治が王子様であるならシンデレラは麻子となるわけだが、そもそも麻子は「シンデレラ」と言えるだろうか。もちろん「シンデレラ・ストーリーではない」という意味で「アンチ・シンデレラ・ストーリー」という名称だということは百も承知だ。しかし、阿部も論文中で指摘しているが、「シンデレラ・ストーリー」というのは“女が男に選ばれること=女の方が格下”ということが前提であり、家父長制に近いものなのである。麻子は短大卒、修治は早稲田大卒という差はあるものの、現在の2人の職業や暮らし(住まい・ファッション・車など)を比較すると特に差はないように感じられる。また、2人が結ばれなかったのも何らかの邪魔が入って泣く泣く、というような理由ではなく、修治が麻子の「心から結ばれたいと思う相手ではなかった」ためである。これでは「シンデレラ」とは呼べないだろう。
 では夏子と圭介、銀平についてはどうだろうか。夏子は銀平よりも、貴族的な圭介との婚姻関係を継続する道を選んでいる。もしこれが、圭介だけが浮気をし、それを夏子が許して婚姻関係を続けるというストーリーだったなら彼女は「シンデレラ」(=家父長制の呪縛に縛られている女性)であると言えるだろう。しかし、夏子は銀平との関係を「麻子が前に言ったみたいに、圭介があのパープー知佳とどったらこったらしたからそのお返しに私がよ、どったらこったらってそんなことだけは絶対違うから。絶対にないからね。これはもう圭介関係ない至って純粋ピュアな気持ちなんだからね」(11話)と語っており、12話では肉体的に結ばれてしまう。圭介と夏子は互いに罪を犯し、互いにそれを受容して婚姻関係を継続する道を選んでいるのだ。これを「シンデレラ・ストーリー」とは呼ぶことはできない。もしここに「呪縛」が存在するならば、当時世間に蔓延っていた「結婚の呪縛」だろう。

<参考・引用>
阿部孝太郎著者名.テレビドラマの構造分析・序説 : その方法と意義を中心に . マス・コミュニケーション研究No.50(0), 1997, p.127 - 139
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/50/0/50_KJ00003740023/_pdf/-char/ja

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?