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「おたからや」からゴールドコーストへ、バブル末期の思ひ出

朝の散歩の途中で派手な看板を見つけ立ち止まった。

「おたからや」であった。

「おたからや」とは、どのようなお品物でも買い取ります、という中古品の買取専門店である。買取品目は実に多彩。
ダイヤモンド、宝石、金、貴金属をはじめ、時計、バッグ、切手、着物、おもちゃ、鉄道模型、勲章、メダル、金貨、小判、携帯電話、ギターなど、リユース可能な物のほぼすべてと記してある。。

この歳になると家中いらないものだらけになっている。特にケチで物を捨てられない私の部屋は不急不要の物だらけである。

私が死んだらどうせ思い入れもミもフタも何もない家族に、全部捨てちまえ となるだろう。

何か売れる物はないか、そうだ、手始めにネクタイなどはどうだろうか。

ネクタイといってもただのネクタイではない。度胸千両乱れ打ち時代に身に着けていた、今では絶対に首に巻けないような高価で派手なものである。

フラッと店に入り、実直そうな店員に聞いてみた。もちろんいかがわしさをみじんも感じさせないきれいな標準語でである。

「ネクタイでも買い取れますか」

「いやぁ、ネクタイといってもハイブランドのものに限ります」

「ハイブランドだと思いますよ。ヴェルサーチとかフェラガモとかフェンディ

とかグッチですから」

私はヴェルサーチがお気に入りで、大量に持っているのである。

当時一緒に住んでいた女性が

「今時ヴェルサーチなんか着てる人は田中康夫とあんたぐらいのもんよ」

と悪態をついていたのを覚えている。


「じゃぁ後でもってきます」

「まさか持ってきてから、これじゃ買い取れません、てなことはないだろうね」

「いえいえ、めっそうもがざいません。値段はともかく、とにかく買い取らせていただきます」


大急ぎで帰宅し、ネクタイの選別にかかった。バッグとかではなくとりあえず

ネクタイだけ、というのが何ともいじましい。

出直して持参したところ、あっけなく全品買取決定。豪華な夕食を食べられる額ぐらいにはなった。

うん、「おたからや」いい! また利用することにしよう。


しかし、大切な思い出の品たちがなくなってしまった。

あのネクタイ達はバブルの終り頃、地上げ屋の用心棒としてゴールドコーストに月一で通っていたころ主に締めていたものである。


あの当時私のオヤジ(義理上の)は身なりにとてもうるさい人で

「ちゃんとしたなりをしろ! そして絶対に人に遅れをとるなっ!」

とまるで葉隠れに書いてあるようなことを年中口うるさく言っていた。

上下のジャージやアロハなんぞとんでもない。身内全員ちょっと派手なIBMのサラリーマンかマッキンゼーのコンサルタントのようななりをしていた。

とにかくオシャレでカッコ良かった。


地上げ屋の用心棒といっても、地上げそのものは地上げ紳士がするわけだし

私はいかにも、といった雰囲気をかもしだしつつ側にいるだけである。

欧米人に対する地上げは日本人ほど難しくない。

彼らは契約上納得がいけばあとはすんなりと手続が進む。

問題は日本人の同業者とカチ合うことだ。

なにしろ一人や二人死んでもおかしくないぐらいの大金がからんでいる。

現場での交渉が決裂してからの拉致、監禁などは日常茶飯事である。

もはやこれまで、と肚をくくったことは一度や二度ではない。

幸い私は当時戦闘のプロなので、される側に立ったことは一度もない。

競合相手を拉致、監禁した後はやさしく説得しこちらの言い分を通す。


私は現地では必ず愛用の小型のベレッタをスーツの下に着けていた。


「やさしい言葉に銃を添えれば、やさしいしい言葉だけよりも多くのものを獲得できる」・・・アル・カポネの言葉


まさしくこれである。


ベレッタはまさか日本には持ち込めないので、当時付き合っていた現地の女性の家に保管していた。この女性はなかなか美しく聡明な女性であったので、本稿ではなく別で書こうと思う。


あのころのバブルに踊った紳士たちは今どこで何をしているのだろうか。

ほとんど生きてはいまい。

若い私の目の前を走り去っていった人たち・・・

何人かは私自身その死を目撃している。


「バブル崩壊は1991年から」といわれている。。

実際、地価の下落が始まったのは1991年だ。

しかし、景気がどうもおかしい、と実感できたのは1993年のはじめぐらいからだ。

しかし株価だけなら、すでに1989年末をピークに下がり続けていた。

このズレはなぜか。

地価下落と不況の実感にズレが生じるのは、当然の話だ。

不動産がうまくまわらなくなったからといって、すぐに企業が倒産するわけではない。

銀行から借りられなくなっても、まだまだ農協マネーをバックにつけている住専や長銀からは資金を借りられたのだ。

(住専破綻は1995年、長銀破綻は1998年)

ただ、全体的に資金繰りが苦しくなってきているのは事実だから、不況感も徐々に湧いてくる。。そのタイムラグが1~2年かかったという話だ。


しかし、株価の方は1989年末を過ぎると、その後はかなりのペースで下がり続け、1990年末には日経平均株価は2万3000円台にまで下落している


これは相当な下げ幅だ。ということは、少なくともこの時点で株価バブルは崩壊し、誰もが日本の先行きに危険な臭いが立ち込めていることを予感できたはずだ。

でも、まだその時点では、全体的なバブル傾向は弾けなかった。なぜか? 


まだ、地価が下がリりきっていなかったからだ。

つまり、私たちの意識は、バブルの泡にどっぷりまみれ、すっかり楽観的になっていた。

この繁栄がもうすぐ終わりを迎えるなんて考えもしなかったのだ。


だから、正常なリスク判断ができず、「株価が下がったのなら、土地で取り戻せばいいじゃないか」みたいな考え方になっていたのだ。

そして1993年頃、バブル崩壊による本格的不況時代の到来を、身をもって痛感させられることになるのだ。


バブル崩壊以降、私は多くの企業や個人の経済破綻を目にしてきたし、自分もそれに加担してきた。

もっともらしい顔をして債権者会議に参加してその経営破綻に伴う自分の権利(自分が所属している団体の)を主張してきた。

これを私が言うにはおこがましいが、だいたい倒産するような会社は帳簿から探っていくと、会社が成長していく過程で貸借のバランスが悪かった。

調子に乗って分不相応な商売をして収拾がつかなくなっていたのだ。


戦でいうなら旧帝国陸海軍と似ている。

兵站を十分に準備し、輸送を確保し、一歩一歩進むのではなく、時の勢いを実力だと錯覚し一挙に戦線を拡大してしまった。

兵力を分散させ、伸びきった兵站戦の末玉砕だ。


現在では、日本軍人の戦没者230万人というのが、政府が明らかにしている概数である。

戦没者の60%強140万人は餓死である。


異常に高い餓死率、30万人を超えた海没死、戦場での自殺と「処置」、特攻体力が劣悪化した補充兵、靴に鮫皮まで使用した物資欠乏……。


これは応仁の乱や戦国時代の戦いではない。つい80年前の近代戦での話である。


私の父親は帝国海軍の空母艦載機の搭乗員であった。幸運にも生き残った父親はよく言っていた。

「俺たちは戦死率は高いけどまだましだ。戦いで死ぬのは軍人の役目である。

どんなに厳しい戦いでも、帰還すれば熱いコーヒーが飲める。

陸軍の奴らはつらかっただろう。餓死だぞ、今の時代に餓死だ。さぞかし無念であっただろう」


バブル期の戦いは企業も個人もみなこれだ。

結果の知れ切った追い貸しなどはこうしたヤケクソ状態、いわば集団ヒステリーの中でおこなわれる。

ただ、破綻する側も途中でうすうす「もうダメだ」と気が付いているものである。

しかし・・・「えーい、ままよ」なのである。

戦いの常として、勝ちはさほど実感できないが、負けははっきり自覚できる。

これは試合であろうが、ストリートファイトであろうがすべてそうだ。

「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」

江戸時代の大名で剣術の達人でもあった松浦静山の剣術書にある一文である。

負けるときは負けるべくして負けているのだ。

「負けるときには、何の理由もなく負けるわけではなく、その試合中に必ず何か負ける要素があるということだ。

規模の大小こそあれ、中小企業の倒産や個人の破綻はごく単純な経緯を経て知れ切った結末に終わるのである。

企業にせよ個人にせよ、その破滅の始まりは急激な成長にあるのではないだろうか。

急激な成長の発端には必ず何かしらの幸運が存在し、多くの場合、当事者はそれをたまさかの運だと認識しないで慢心する。

そして運を力に変える地道な努力をせず、ひたすら手ばかりを伸ばそうとするのだ。


さわやかなゴールドコーストコーストの写真から書いているうちに後半は重たい話になってしまった。

ごめんなさい。

この家族は私の地上げとは何の関係もありません。
ただ、あまり楽しそうではありませんね。淋しそう・・・


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