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わが心の近代建築Vol6 伊達市保原歴史文化資料館(旧亀岡家住宅)/福島県大泉

みなさん、おはこんばんちわ。
今回は、昨年の夏、福島遠征で訪問した所より、福島県伊達市に移築保存された、旧亀岡家住宅について記載します。
この建物は、もともとは1904年に、地元の豪農、亀岡正元氏の邸宅として福島県桑折町に建立されたものですが、1985年に老朽化のため解体。同年、保原町(現在の伊達氏)に寄贈ののち、1995年、保原市総合公園内に移築復原されます。
もともとは、約4600㎡の敷地に土蔵などが並ぶ広大な建物でしたが、当初の予定はそれらも五地区の予定だったものの、諸事情により、残念ながら主屋部分のみの移築になりました。
亀岡邸は、当時の豪農建築が茅葺屋根建造物の多い所、地方都市で、ここまでの疑洋風建築が残されるのは極めて稀有な例であることと、その邸宅には、贅を尽くした、現在ではほぼ入手不可能な銘木が数多く使用されていたことから、2008年に国の重要文化財に選定。
また、邸宅建築には当時の金額で5マ年かかったと言われていますが、実際にはその3倍の18万円で、今の金額に換算すると、約20億円以上の金額が費やされたと言われています。

たてものメモ
亀岡家住宅(伊達市保原歴史文化資料館)
●竣工年:1904年
●設計者:江川三郎八
●文化財指定:国指定重要文化財
●写真撮影:可
●交通アクセス:JR福島駅より阿武隈急行「大泉駅」下車、徒歩5分
●参考文献
・米山勇編「日本近代建築大全【東日本編】」
・伊達市保原歴史文化資料館編「国指定重要文化財 旧亀岡家住宅」レジュメ
など

施主:亀岡正元(1861~1945)
まず、この建物の施主にあたる亀岡正元について記載すると、1861年に生まれ、1876年に亀岡家に婿養子に入り養蚕業・農業・地主を中心として、金融業を営み、財産を蓄積。
明治期では、養蚕農家が生糸の輸出から非常に注目され、正元も養蚕業で財を成しました。
その一方で、正元は古くから村政にも深く関わり、県会議員や村長などを歴任。
地方自治の振興発展に寄与し、公職を辞してからは東京牛込に移り、金融業などを営み、1945年にその生涯を閉じます  

設計者:江川三郎八(1860~1939):
次に、亀岡邸の設計には当時、福島県技師だった江川三郎八が深く関与したといわれ、地元の大工棟梁・小笠原国太郎氏が深くかかわっと言われます。
江川三郎八は1860年に旧会津藩士の家に生まれ、宮大工修業をしたのち、1887年に福島県技師に就任。橋梁工事などに携わり、その後、1887年に山口半六、1898年に妻木頼黄の指導を受け、1901年には学校建築を久留正道から学んだのち、岡山県に転任。
岡山では多数の建築に関わりますが、旧亀岡邸は福島時代になった建造物の一つでもあります。


正面写真:
旧亀岡家住宅は、当時の豪農住宅には茅葺屋根や板葺屋根のところが多い中、極めて珍しい疑洋風に設えてあり、旧来の農家建築とは一線を画す仕立てになっています。
地上からドーマー窓の一番高いところまでの高さが16.25mあり、屋根部分は寄棟造り。立野野の正面外観は左右対称型になっており、東日本大震災前には、風見鶏も付けられていました。

正面入口:
正面玄関部分には西洋建築のハンマービームに似た設えが付けられています。また、右側の玄関は脇玄関胃にります。

側面写真:
生活棟部分は1階誰、座敷棟は2階建+塔屋になっており、家族などは通常、右側の棟にある出入口を使用します。また、この建物には、当時大変貴重だったガラスがふんだんに使用されています。

屋根瓦部分:屋根瓦には福島県須賀川市産の赤瓦が用いられ、先端部分には、亀岡家の屋号[丸に三つ引き両」が描かれています。

後方から臨む:
邸宅屋根上にはドーマー窓や煙突が取り付けてありますが、装飾的な意味が強く、何の機能も果たしていません。
また、ドーマー窓上部には、日本の寺社建築でよく見られる擬宝珠に似せたものが付けられています。

平面図(保原歴史資料館のHPより拝借):

1階どま【伊達市保原歴史文化資料館HPより拝借】:
今まで、旧亀岡家住宅には3回訪問しましたが、工事中で写真が得られず、ネットより拝借。こちらは土間部分に当たり、邸宅内に井戸が掘られている非常に珍しい意匠になっています。
洗い場や土台部分には御影石が使用されています。

1階井戸/洗い場部分の天井:
井戸天井部分は吹き抜けになっており、ガラス製の引き戸が付けられています。この部分は水神様の出入り口として設けられたと言われています。

1階炊事場/囲炉裏:
次に炊事場ですが、柱や土台は、水に強く腐りにくい栗が用いられています。また、囲炉裏は雪の多い東北の地らしく、側板を外せば、土足のままでも暖をとれる造りになっています。

1階居間:
一方次の間は、10畳間からなり、天井部分はケヤキの格天井になっており、付書院には亀甲模様、押入の格子はベンガラで塗装されており、出窓の棚には亀が彫られ、脇部分にはブドウと木ネズミが彫られています。

1階居間の書院の出窓部分:
出窓の棚には亀が彫られています。

1階主人居室:
通称「欅の間」と呼ばれる15畳間になっており、天井部分はケヤキの1枚板を嵌め込んだ「折上格天井」になっています。
また、床柱部分には2本の柱が並んでいますが、これらの板目は上向きになっており通称「出世柱」と呼ばれる大変貴重な欅の銘木が用いられています。
また火鉢や神棚の格子戸、ガラス引戸部分の戸枠の黒い材は、阿武隈川で採取された「埋もれ木」(川底でなかば石灰化したもの)が使用されています。また、書院部分の障子戸には亀甲模様があしらわれています。

1階主人居室の欄間と障子:
障子はこの部分にしか用いられておらず、この広い邸内でも僅か4枚のみ。
障子上の欄間は「松竹梅」が模られています。

1階主人居室の床の間天井部分:
床の間天井部分を覗いてみると、ケヤキの1枚板を嵌め込んだ、「折上額縁格天井」になっています。

1階主人居室の神棚:
神棚部分の格子は、川底に沈んでいた「埋もれ木」を使用しています。

1階正座敷:
通称「杉の間」と呼ばれ、15畳間からなり、亀岡家でもっとも格の高い部屋になっています。天井部分は秋田杉の折上げ竿縁格天井、床柱には、糸柾目の杉の四方柾になっており、1本100万円の価値があるとも言われています。
床框と落とし掛け部分にはケヤキ材が。
違い棚には黒柿の一枚板立浪型の筆返しがついていて、長押はスギ材で厳格な枕捌きで収められています。

1階次の間:
正座敷に面しており、正座敷との間にある欄間は、機織り機の筬【おさ】をイメージした筬欄間。天井部分は、「杉の間」と同じく秋田杉の折上げ格天井になっています。
隣室との間仕切りは襖ですが、廊下との境の間仕切りには、カエデやキリの材を使用した戸縁や桟によるガラス戸になっておりイタリアからの輸入品。
襖に比べ採光が図られています。

1階脇座敷:
一方脇座敷は10畳間からなり床柱には、阿武隈川の川底より発見された栗の「埋もれ木」が用いられていますが、これは鉄分や鉱物を含んだ、半分化石化したものになっています。また、床框も栗の埋もれ木が。落し掛けはクヌギになっています。

1階脇座敷の階段部分に接する天井:
階段部分の下側の天井は、「ひねり竿縁天井」となっており、全国的にも極めて珍しい意匠が組まれています。

1階玄関広間:
天井部分は通称「生き節」と呼ばれる節が付いた杉板が用いられていますが、これは、節を小判に見立てて、上から大判小判が降ってくる「銭あられ」という意匠で、正元氏が蓄財を願ったものとなっています。
また、当時のガラス戸は大変珍しく貴重なもので、イタリアからの刻輸入品になっています。

1階正面玄関:
アーチ型は明治初期の西洋から入ってきた構造で、玄関の木造格子戸はヨーロッパ建築で見られたハンマーをデザインしたもので、観音開きになっています。
亀岡家にとって大切な来客を剥いかえる際に使用され、通常の来客や家人は脇玄関から入りました。

1階脇玄関:
正面玄関わきにある出入口。
先述の玄関部分に比べて小さく、家族や通常時の玄関として使用されました。入り口は小さな「くぐり戸」になっています。

1階控室:
脇玄関前の部屋。
亀岡家を訪れた車夫などが控室として使用した部屋になります。

1階主人書斎/応接間:
この邸宅唯一の洋間で、天井部分は中央折上笠板天井(ちゅうおう‐おりいた‐かさいた‐てんじょう)といい、、板材が中央から放射状に広がった大変難しい工法で作られたものです。また、窓枠にはケタキを用いた額縁造になっています。
室内の図鑑は、室内のブリタニカ百科事典は、施主・亀岡正元氏が購入したものです。

1階家族居間(大):
腰板にはケヤキの無節が使用されています。
幅木(壁と板が接する部分)には、松の1枚板が使用されていて、造り付けの戸棚は整理整頓に持ちいられ、家族用の部屋に使用されました。

1階廊下部分:天井部分は黒焼杉になっていますが、ワラで焼いた杉板を簓(ササラ:ザクロの根で作られた櫛)で磨いたものになっています。床板はケヤキ材。廊下の角を扇形にすることにより、「行き止まらない」意匠が困られています。

1階階段部分:
階段は全てケヤキ材が用いてあり、手すり部分にはあえて「曲がり材」を用いて、削り細工をしたものになっています。手すり下部の支柱は1本づつ、ロクロで削り出して、それぞれ太さを統一した手の込んだものになっています。

2階西座敷:
15畳の広間。
床柱部分は、熱帯地域産出の南洋材・鉄刀木(タガヤサン)を。床框には紫檀(シタン)を用いており、落とし掛けには、これも銘木の黒柿を使用した贅を尽くした室内になっています。
また、西側に付書院、東側に平書院を備え付けています。

2階西座敷/次の間:
西座敷に付随する「次の間」になっています。

2階廊下部分:
廊下の角部分は1階と同様、角が扇形に設えてあり、雨戸部分の滑車(ローラー)部分には金億を用いらず、瀬戸物にしていますが、金属製だと、錆が木材にダメージを与えてしまうための配慮になっています

2階脇座敷:
10畳の部屋になります。
床柱/床框部分にはそれぞれ、南洋材の花梨(カリン)を使用しています。

2階脇座敷/次の間:
脇座敷(2階部分の真ん中の部屋)の次の間になっています。
また、欄間部分には、機織り機の筬(オサ)をイメージした筬欄間になっています。

2階東座敷:
10畳の小規模な部屋になりますが、この邸宅内で、最も税を凝らして作られた部屋。
床柱においては、手前側の南洋材のカリンを途中で切り、奥の「控え柱」の黒柿をみせています。この理由として、日本建築では、通常床柱を前後に重ねるのは不吉とされていますが、手前側の柱を切ることにより、その意匠を解決。また、床柱の切り口部分は、鼓張りの手法で板を嵌め込んでいて、叩くと鼓のような音がします。
床框には、南洋材の鉄刀木(タガヤサン)を使用。
長押は杉材の枕捌きになっていて、床脇の框部分はケヤキ材が使用され、付書院部分の格子は、トクサの茎やサメの皮などを用いて面取りされています。

2階東座敷の床の間天井:
床の間の天井部分を覗いてみると、重ね菱の「二重竿縁天井」になっているのも面白いです。また、この下に見える落とし掛け部分も、マキ材の埋もれ木を使用したものになっています。

2階東座敷の床脇の違い棚:
1階正座敷部分と同じく、黒柿の違い棚になっており「立浪型」の筆返しが付けられています。

3階塔屋に上がる階段:
2階アルコープ部分には、塔屋に行く階段が設えてあり、階段は柿材を使用しています。

塔屋階段部分の彫刻:
こちらには柿木が描かれていますが、意匠として「財産を描き(柿)集める」という想いが込められています。

3階塔屋部分:
特別にガイドさん同席のもと、ご厚意で見させていただいた部分。
板の間でスミキリの洋室になっており、一面を見渡せます。


【最後に‐東日本大震災の影響などを添えて】
20110311、日本は未曾有の大災害に見舞われ、東北地方の惨状は今でも目を覆うものがあり、現在も罹災されて避難されている方も大勢いる現状ですが、この邸宅に関しては、奇跡的に難を逃れ、唯一の被害は、展望台上に掲げられていた、風見鶏が倒れた程度で、ほか、窓ガラスに至るまで、その被害はなかったといいます。
この邸宅には貴重な材木と、優れた大工技術が凝縮されおり、これからも末永く大切にされることを強く望みます。
また、もしこの邸宅を現在作るとなると、20奥円以上にもなるといわれ、また、これだけの材料と大工技術を確保できるか、極めて困難を極めることが想像されます。
ただ、昨年の6月に訪問した際には、地震のの影響を受けており、建物の一部が修繕中で、一部、過去写真やネット上のを用い炒りましたこと、お許しください。

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